大阪維新の会「教育基本条例案」何が問題か?

大阪維新の会「教育基本条例案」何が問題か?

地方教育行政において条例内容を評価する基準としては、一般に「必要性/適法性/有効性/効率性/公平性/協働性(参加性)」の六つがあげられるが、その内容は以下のとおりである。
必要性…そもそもこの条例は必要か。公的関与として実施する必要があるか。
適法性…違法という判断を受ける恐れはないか。司法手続きで条例の効果が否定される可能性はないか。
有効性…条例が掲げた目的の実現にどこまで寄与するか。課題の解決にどの程度の効果が生じるか。
効率性…条例の執行にどの程度の費用を要するか。より少ないコストで同じ目的を実現できないか。
公平性…条例による効果やコスト負担が公平に分担されているか。
協働性…住民、NPO等の参加について配慮しているか。各主体の自己決定や相互の連携について配慮しているか。
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筆者によれば、必要性、適法性、有効性、効率性のいずれも不十分であるとのことだ。私もまた、いずれ少なくとも適法性を欠くという点で教育基本条例(案)は訴訟の対象となると見込んではいるものの、同条例の誤りが明らかとなる判決が出るまでに、国の法令に違反した条例のもとで数年間教育を受けることになってしまう子どもたちのことを案じて暗い気持ちになるのだ。ただし、階層論や教育的価値論を持ち出してもテレビ討論の際のようにつまらない言い争いになってしまうので、あくまでも法や行政の問題として枠付けてしまう方がよい。
3月25日の「『大阪の教育』ガチ熟議!」にしても、「和泉高校のような『現場』を学者は知らないはずだ」として、倉田哲郎や置田浩之の強い主張にひきずられるだろうから、多様なステークホルダー―ほんとうに多様なのだろうか、これまでのリアル熟議で多様なステークホルダーが参加していた例は少ないように思われる―が参加するのだとしても、大政翼賛的な議論が展開することにならないだろうか。大阪市の改革を好む層と、最近では何故かリアルという接頭辞を外して用いられる「熟議」を好む層が重なっているようにみえてしまうことから、なおどうしても「熟議」の暴力性を感じざるを得ないのである。
和泉高校の「マネジメント」については、Steven Lukesの三次元権力論からみてみると、一次元権力の発動にすぎないのでまったく上手ではない。二次元権力や三次元権力が存在しているようならば、舌を巻くのだけれども…。高校の先生にルールを守れという以前に、条例(案)がルールを守っているのかどうかの検討、また、教育行政が一般行政から独立することが正統なルールであるとされてきた理由についての勉強をしなければならないのだろう。