先日、自らの「地味な」科研(自らは「一人親方科研」と呼称している)の調査のために関東近郊の私立大学を訪問した。史資料を読み進めていると、「古田会長の機嫌をとってきた」、「土地の取得に手間取った」、「あの大学開設屋がまた東日本に戻ってきた」、「建学の理念に応えられる教員が揃わない」など、ここもまた同じような状況にあったのかと感慨深い気持ちになる。もちろん、そんなことは論文にできないことがらなのだけれども、政策の背景となる情報としてとても参考になった。
さて、いつものようにコピーのために用意した大量の硬貨のおかげで、十分な史資料を持ち帰ることができた*1。その帰る途中、最寄り駅までのスクールバスを待っているときのことである。教員らしき方が私の傍らを通りつつ空を眺めて、「きれいな鰯雲だなあ」と独り言を仰った。私はさすがに理工系で有名な大学なのだなと感心していると、同じように通り過ぎる数名の学生さんがやはり空を見上げて「きれいな鰯雲だね」とやはりひとりごちするのである。
私はこうした自然に対する鋭敏な感覚を失っていたことに茫然としてしまった。この数年、空を見上げて感想を言うなどまったくしたことがない。私の大学院の指導教員はもともとは理系であって、気象への造詣が極めて深かった。そのため、当時は指導教員に合わせて、よく空を見上げていたにもかかわらずである。慌てて鰯雲の写真を撮って(右上)、スクールバスに乗り込む。そして、ぼんやりと車窓を眺めていて思い出したのが、高田三郎の合唱曲「私のねがい」の第1章「いまわたしがほしいのは」(1961年) である。

けれども
かけがえのない友は いま美しく狂って 
病院のベッドの上にいる
「水よ きれいな水が 流れているのよ」
ベッドの脚を なでながら
やさしくいいはる ひとりの友がいる


狂った友よ 美しく
そして正しく 狂った友よ
いまはっきりと わたしは言える 言えるのだ
あなたの両手は 正しくて
わたしの両手は 滅びていたと



わたしの両手は確かに滅びているのかもしれない。



*1:コピーカードの販売がないことはよくあることだ。