![革新幻想の戦後史 革新幻想の戦後史](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41QhuWkJFyL._SL160_.jpg)
- 作者: 竹内洋
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2011/10/22
- メディア: 単行本
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強く関心を持ったのは、3章「進歩的教育学者たち」、4章「旭丘中学校事件」である。4章は私が持っている教育行政学(の歴史)の通説的理解に対して若干の修正を要するもので、素直に勉強になったというより他がない。困惑してしまったのが3章である。
もちろん、当事者や当事者のおでしさんからすれば反論したい部分も少なくないだろう。しかし、筆者が言う「とばっちり」が2000年代の「末端」研究者の私にさえも及んでいるような印象を拭うことだできず、どうしても竹内の筆の運びにリアリティを感じてしまうのである。
清水義弘(1917〜2007)、東京学芸大学助教授だった。教育社会学講座が文学部社会学科戸田教授の協力によってなった経緯からして、三M教授をはじめとする教育学部の他の教育学者がこの人事に異論をはさむ筋合いのものではなかった。だから、清水の人事はすんなり決まっただろう。しかし、この人事によって赴任(1953年4月)した清水義弘こそが三M教授にとっては以後の天敵となる。141頁
「三M」が活字になっている……………。
これは京大出身の筆者でなければできないだろう。ともかく、このおそらく本来は学問に対する「かまえ」(→筆者によれば、肝心なところで和語を使ってごまかすような「教育学」の論法である)による確執、つまり、あくまでもディシプリンの相違による確執であったものが、数十年の歳月を経て、極めて薄められたかたちで私に関係してくることを、あらためて実感させられてしまったのである。もちろん、私は以前にも述べたように、清水の政策科学の業績をまったく評価できないという点については、また、教育社会学とは政策科学そのものだといういう主張を認めないという点については、もともとは清水のでしであって私の指導教員である研究者の見解に強く賛同している。しかしながら、ここでもう1つ捻じれるのは(1つ目の捻じれは、そもそも指導教員が清水のでしであったこと―その後の研究者人生に苦労をもたらすことになったらしい、涙を流して憤る姿を数回拝見した)、私が産学連携のような産業界と教育機関の関係に関心を持っていることである。私としては、政策科学的に必要なものであるとして産学連携の推進を意図するわけでもなく、また、「教育学」の領域から産学連携を否定をしたいわけでもない―「国独資粉砕!」などと言いたいわけでもない。そうではなくて、どのような歴史があったのかを切実に知りたいのである。そうであるので、私は当然のことながら三Mのでし、孫でしと論争になる。筆者の言う「『忌まわしきことは研究するな!』という風潮」(177頁)の残滓である。しかも残念なことに、それが学問のレベルでできるのならば極めて本望なのだけれども、大抵は揚げ足を取られるような話にしかならない。そんな2000年代の10年近い悩みであった。リジェクトされた内容の薄い査読結果を「晒す」か、などとも思ってしまう―もちろん、そんなことするわけがありません。ここまで、深夜の繰り言である。
されど、繰り言は続く。その時期、院生であった頃、東大からは遠く離れた私の大学院でもまた同じような状況が存在していた。このことは、他の大学院で研鑽を積んでいて一時期だけ私の大学院に「留学」していた研究仲間の某氏から指摘されて気付いたことだが、確かに、リベラルであることを売りにするようなところがあった一方、指導教員に対して何も発言できない雰囲気のゼミがいくつかあって、それは外部から見るとかなり封建的、時代錯誤的だというものである。この指摘を頂いた際、それが的確であろうことについて強く戸惑ってしまった。私が年長の研究者の前でほとんど発言しないのは、そうした習慣が身に付いてしまっているからかもしれない。大きい教室での発言はまったく容易なのだけれども、小さい研究室や会議室ではほんとうに発言できない。三M支配のような状況はどこにでもあるのかもしれない。
そして、筆者がよく使うブルデューの枠組みで言えば、当時私の周囲の院生集団は「文化資本+/経済資本−」が圧倒的に多かった印象がある。とにかく、大学教員、学校教員、私塾経営者・教員の子どもが目立つのである。教員の子どもが教員になる世界…*1。「文化資本−/経済資本−」の私はういてしまう。それらを補うために行っていた度々の会社勤めや夜中のシンクタンク修行もまた、当然ことながら蔑まれてしまう。大学院にあまり良い思い出はない、学部はなおさらだけれども。
恥ずかしがることもなく、繰り言を書かせてしまうほど心を揺さぶる3章であった。