サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

私の出身の学部はそれほどでもないのだが、大学院は「ええとこのボンボン」が数多くいた。「ボン」ではなくて、「ボンボン」である。このニュアンスをお分かり頂けると、私のスタンスも明らかになるだろう。
大学院への進学、とくに「社会人」経験者の大学院への進学について相談を受ける機会がある。相談者が「ボンボン」であることが分かれば、私は進学について反対することはない。しかし、相談者が言わば「『洗練された』他者の否定の様式」に戸惑いを感じるようであれば、私はたいてい反対することにしている。「ボンボン」との付き合いを苦手とすると、大学院生活を長く続けることはできない。私がいまだに苦しむのが、そうした研究の世界における「自然で」、「適切な」振る舞いの様式である。所属していたゼミはやはり「ボンボン」は少なくなかったが、しかし、そうした態度で接してくる院生が少なかったのは幸いであった。とはいえ、当時のそのゼミ以外の研究仲間、現在の職場において付き合わざるを得ない教職員の中には、やはり極めて「高尚」なコミュニケーションの手法―たとえば、冷笑―で、接してくる方もいないわけではない。
もちろん、この場合の「高尚」という言葉には、「ボンボン」と同じような皮肉を込めている。ある時期から、大学院に多く存在していた様々な「ボンボン」が様々な運動に励む姿―私にとってはパラドキシカルにしか思えない姿―を冷静に見られるようになった。たとえば、「ボンボン」の運動家に「イスラームの女性の困難について、お前はあまりにも無知である」と喧嘩を売られても、あまり動揺しなくなった。冷静というよりは、まさしく「適切な」コミュニケーションである冷笑と言った方がいいかもしれない。それ以来、何とか研究の世界でやっていけるような気がするようになったのだ。けれども、常にそうした振る舞いができるとは限らない。往々にして、文脈に適さない態度を取ってしまうことがあるのだが、その時は、往々にして「ボンボン」に対する苦手意識を強く感じているのである。どちらにしても、嫌な話しである。
こうしたトピック、高等教育研究にはならないものか。