大卒就職の社会学―データからみる変化

大卒就職の社会学―データからみる変化

香川論文、『就職ジャーナル』を対象とした言説分析はこれまでも幾つか行われているのだが、そのなかでは最も面白い。リクルートが発行していた雑誌は、そもそも広告を販売するというモデルを極めたものなので*1、たとえば「創刊の辞」が存在していないなど、雑誌を対象とした研究を行う手続きの段階で躊躇われてしまう。とはいえ、「自己分析」言説の変遷を追ううえでは、最も望ましい対象であることは間違いないのだろう。
確かに、私の世代では「自己分析」は一つのツールに過ぎなかった。このツールを使うか使わないかは学生によって異なっていたような記憶がある。しかし、00年代半ば以降、「採用プロセスそのものが自己分析」として位置づけられるようになったという指摘は、とても腑に落ちるものであった。
この結論から、後期近代論に飛躍することのない姿勢は慎重で好ましい。また、かのリクルートの有名な選抜基準は「私たちと一緒に働きたい人材かどうか」であって、かねてから選抜基準が曖昧であることを憚ることなく公言していた。そうした恣意性に異議を唱えることは必要だとしても、企業の有する「採用の自由」(契約の自由)に関する法的な権利はいまだに強固である。それを制限するためには他のアプローチが必要なのだろう。

小山論文、「採用基準の拡張」、「採用基準の境界変動」は、採用担当者であれば誰もが感じていることで、身も蓋もなく採用の実態を明らかにしたものである。就職情報誌の記事によくあるような、採用担当者による覆面座談会のような企画でもなかなか発言されないような内容だった。
ないものねだりをすれば、「拡張」については、その方向に何らかの決まりがあるのかどうか、もう少し検討したいところである。たとえば、ある企業が「私たちと一緒に働きたい人材かどうか」といった素朴な枠組みしか持ち得ないのであったとしても、「メタ情報」や「非言語的情報」の性格はどのようなものなのかを突きとめたいと思ってしまう。そして、「境界変動」については、この論文では1年間のスパンで検討されている*2このスパンをもう少し引き延ばすことによって、何故かくも年毎に大きく採用数を変えるのか(「科学的」な志向性の極めて高い人事業界であるにもかかわらず、この現象はまったく「科学的」に見えない―経営学はどのようにこうした事態を理解するのか)、という問いに対応可能になるように思われるのである。

*1:もちろん、どんな雑誌も広告業である。

*2:私の経験では、後半になるにつれて採用基準が低くなっていった―予定数を確保できないと人事部の評価が下がるのです。