「EQ(こころの知能指数)」の日本的受容の性格を検討するために、参考文献にするには憚られるような、いわゆる「トンデモ本」の世界を再び探訪している。
著者によれば、「人間力や社会人力などと最近呼ばれている力も、このEQに近い」(56頁)、「(EQは)コンピテンシーにきわめて類似する」(58頁)そうである。しかし、同時に、「会社の数だけコンピテンシーがあるといわれることがあるくらい・・・、固定したスタンダードはない」(60頁)そうだ。スタンダードが存在しないものに対して、EQが近いとはどのようなことなのだろうか。また、それらの概念に「近い」ことのない/遠く離れた人間関係能力や内観・自律能力が存在し得るのだろうか。そもそも、EQのオリジナリティは何なのだろうか。どうしても、同じことがらを別の言葉で言い換えているに過ぎないように見えるのである。あえて言えば、末日聖徒イエス・キリスト教会モルモン教)の教義色を強めたコンピテンシーということになるのだろうか。
さらに、筆者は大学「改革」に筆を進める。「大学四年間はリベラル・アーツに力を入れて、専門教育を受けたいのであれば大学院に進学する構造が望ましい」(173頁)とする一方で、「学生の本当の『能力』(単なる学力ではなく広義の能力)を真剣に見つめるようになった」(169頁)と言う。筆者の言うリベラル・アーツとは、既述の人間力や社会人力に加えて、歴史・哲学・文学を指すらしいが、それらの「能力」とは一体どのようなことを意味するのか、まったく分からない。さらに、大学における「専門教育」と「実業教育」を区別しないまま論じるので、いわゆる「社会人教員/実務家教員」が大幅に必要であるという結論に至ってしまう。
粗雑な能力論や改革論をするような先生には「お引き取り願うシステム」(169頁)が是非とも必要である点は、強く同意する。そのうち、フランクリンコビーの手帳の利用を学生に強いることがないかどうか、とても不安である。