筆者の博士論文に加筆修正が行われて書籍化されたものである。なお、私は10年前くらいから、単なる性差を意味するのに「ジェンダー(差)」という言葉をわざわざ使う文章を見かけることがある。本書はそれらの文章のように言葉を曖昧に使っているわけではなく、ジェンダー研究(かつ高等教育研究)として位置づけられるはずである。

「女性性」が学業達成といった「業績性」とともに、社会的な資源として機能し、それが社会を生き抜くための「戦略」と考えると、「業績性」「女性性」の双方とも重視せず、「自由」「マイペース」を志向している資格系短大・専門学校の女子学生は、社会経済的に不利になる可能性が考えられる。一方で、上位大学の女子学生に関しては、「業績性」にプラスして「女性性」も身につけており、社会的に非常に有利になるものと考えられる。
(略)
このように、女性内分化の要因としての、主体的で戦略的な「女性性」の利用の仕方は、学業達成によって異なる傾向がある。今回の分析で明らかとなった近年の傾向としては、高い学業達成を手に入れた女子学生は「女性性」も身につけ、学業達成を手に入れなかった女子学生は「女性性」を重視せずに自分らしい自由な生き方を選択する傾向があるということである。それは結果として、社会における成功/不成功を左右することになり、図らずも階層を再生産することにつながっていく可能性が考えられる。すなわち、学歴の高い上位大学の女子学生は、社会・経済的により有利になり、学歴も「女性性」も低い資格系短大・専門学校の女子学生は、不利な位置に追い込まれるという「女性内格差」が生じるのである。女子学生たちは「女性性」に主体的にコミットメントしている。しかし、一方で「女性性」による若年女性の分化は、その「戦略性」ゆえに、女性間の格差を後押しする可能性があるのである。
第4章「女子学生の『女性性』意識に関する実証的研究―ライフコース展望、入学難易度との関連に着目して」
95-96頁

「女性性」は「恋愛」「メイク」「ファッション」に関する変数にして分析した質問紙調査の結果から明らかになったことの一つが上記引用である。経験的には知られていたことであるのかもしれないが、こうしてデータをもとに説明されるととても落ち着かない気分になってしまう。学業達成については、それを教育機関において求めることに不自然はない。近代学校のことわりでもある。他方、ここで言われている「女性性」はどうであろうか。教育機関においては正統な文化ではないという理由で(あるいは、学業達成を阻害するという理由で)、むしろ忌避するべきとされてきたかもしれない。学校文化として学業達成と「女性性」は両立しない、両立させてはならないという規範があっただろう。そうだとして、だからこそ「教育」ならざることがらとして本人の「努力」が問われてしまう、それはすなわち様々な資本の多寡に直接的に影響されてしまう。しかし、その影響を弱めたいからといって「恋愛」「メイク」「ファッション」を「教育」の対象にすることじたいや、その効果についても積極的に評価することは難しい。もぞもぞする、ぞわぞわする、落ち着かない気分が続くのである。
筆者の関心の対象外であるかもしれないが、「男性性」について同じような調査をすればどのような結果が得られるだろう。学部生の頃、ジェンダーのゼミに所属していた私はとても気になるのである。インターネットでは(ここでは言葉を濁しておくけれども、特に外見に関することとして)「男性性」という言葉でまとめられるようなことがらが、人生の何らかの達成と関連しているという話題が冗談交じりに提起されることがある。しかし、それは冗談で済むことではなく、ジェンダー意識とキャリアという重要な論点なのだろう。この研究で示されたように、学業達成との関係や、マイヤーの言う「チャーター」との関係があるだろうか。私の予想は大いにある、である。ただ、これは本書に関して今後の課題となる問題で、「チャーター」の効果(効果があるということに加えて、効果がないということも)を析出する方法が難しい。どうすればよいだろうか。

この話題は以前にも取り上げたことがあるかもしれない。しかし、少なくとも私にとっては重要なことなので、再びまとめてみたい。
大学生の就職活動に関連するお仕事をなさる方が「ミスマッチ」という言葉を使うことがある。「最近、特に若者においてミスマッチが増えてきているようだ」「ミスマッチを防がなければならない」というようにである。mismatch とは「不適当な組み合わせ(のもの)、不釣り合いな縁組み」(出所:WEBLIO英和辞典)の意味であるが、この文脈ではやや異なる意味で用いられる。たとえば、「企業が求める労働者の属性と、失業者の属性が異なるため、労働力需給の質的不適合が起こることをいう。この場合、未充足求人と失業者が併存することになる。年齢間、地域間、職種間、産業間でミスマッチが見られる」(出所:コトバンク
という意味であろう。大学生の就職活動で言えば、職種間、産業間、さらには企業間について指摘されているということになる。そのうえで、さしあたり、私は2つのことが理解できていない。
第1に、では、「マッチ」しているとはどのような状況だろうか。仮に、離転職にまで至らないという外形的な基準で判断できるといえるだろうか。しかし、離転職が少ない理由は個人と仕事が「マッチ」しているからというよりも、企業規模が大きいことや過重労働を強いられない業種であることが理由であると説明されてきたはずである。3年離職率中卒7割、高卒5割、大卒3割という長らく安定して推移してきた数値(二宮 2010)も、就職先の企業規模や業種が卒業学校によって異なることが理由であろう。あるいはまた、仮に個人の内面を理解できれば「マッチ」している状況を特定できるということなのだろうか。とはいえ、この理解が可能であったとしても、個人はそれほど簡単には仕事のすべてに「マッチ」しないような印象を持っている。日々の仕事の中でも「マッチ」する部分と「ミスマッチ」の部分があるし(たとえば、外回りの営業は得意だけれども、帰社後の営業事務が苦手である)、給与・賞与、休日取得、職場の人間関係、職場の環境・衛生(たとえば、タバコが苦手である)などそれぞれに「マッチ」「ミスマッチ」がある。そして、個人は何らかの「ミスマッチ」があればすぐに離転職するというわけではなく、それぞれの「ミスマッチ」にどうにか折り合いをつけて仕事を進めるのではないだろうか。あなたは、今の仕事に対して折り合いなど考えることはまったくなく、ほんとうに「マッチ」しているといえますか。
第2に、「ミスマッチを防ぐために、大学生はしなければならないことがたくさんある」という主張に妥当性はあるだろうか。私がよく聞くのは次のような理屈である。

就職後の「ミスマッチ」を起こさないようにしよう→そのために就職活動をがんばろう→そのために企業研究・業界研究をしっかりしよう/他大学の大学生と友だちになろう/多くの社会人と話す機会を作ろう/たくさんのアルバイト、特に居酒屋などの接客バイトをしよう/インターンシップに行こう/就職情報サイトに登録しよう

そもそも「マッチ」する状況がわからないというのは既に述べたとおりである。そして、大学生の就職活動に関連するお仕事をなさる方は社会人の転職活動にも関わることがあるかもしれないから、つまり、大学生向け就職活動サイトの運営企業は転職者向けのサービスも提供しているから、ほんとうは「ミスマッチ」がたくさん生じて離転職者が増加する方が嬉しいはずである。今は6月、夏の賞与の時期である。転職者向けサービスの広告をよくみかける時期だ。いや、そんな想像はともかくも、理屈として挙げられたことがらが「ミスマッチ」を防ぐことにつながるのだろうか。


http://www.jil.go.jp/institute/research/2007/036.html
JILPT調査シリーズ No.36「若年者の離職理由と職場定着に関する調査」


JILPTの調査結果は、仕事の責任が重過ぎる、仕事量が多すぎる、ストレスが過大である、労働時間が長すぎる、休暇が取りづらい、人を育てる雰囲気がないなどが離職理由として挙げられる割合が高いことを示している。これらのことは、多くの社会人と話す機会、たくさんのアルバイトなどによってほんとうにわかるのだろうか(もちろん、それぞれのことがらに意味がないというわけではなく、「ミスマッチ」を防ぐという目的以外の意味があるのだろう)。また、企業研究・業界研究を〈適切に〉行えば、ある程度はわかることである。けれども、そのことはいわゆる「ブラック企業」を避けるために行うのであって、「ミスマッチ」を防ぐためではないだろう。誰しもそんな「ブラック企業」は嫌なはずだ。
こうしてみると、離転職の多さは個人が自ら解消するべきという想定を置く「ミスマッチ」によるものではなく、働く環境の悪さに由来しているようにみえる。すなわち、職場が組織的に取り組むべきことが等閑視されたまま、立場の弱い求職者、特に大学生にその責務が転嫁されているようにみえるのである。
さて、実はこれまでの話しは来週の就職ガイダンスの宣伝である。企業研究・業界研究を〈適切に〉行う方法について考えたい。「ミスマッチ」「マッチ」についての考察は、前回の就職ガイダンスでシーナ・アイエンガー『選択の科学』という別のアプローチによってもできるかもしれないとお伝えしたところである。複数のクイズを出題したものの、いつものように答えを出さないままにしてあるよね。「ミスマッチ」は事前に避けられるのか、避けるべきと主張されることの背景・前提・根拠は何か、「ミスマッチ」は現代の大学生だけに関係するテーマなのか、避けられないとしたらできることは何か、まだまだ問いは多く残されていて面白い!次のガイダンスをお楽しみに。


二宮祐、2010、「労働市場と進路問題―学卒者の生きる過酷な現実」『図説教育の論点』旬報社

大学評価と「青年の発達保障」 (大学評価学会・シリーズ「大学評価を考える」)

大学評価と「青年の発達保障」 (大学評価学会・シリーズ「大学評価を考える」)

山梨学院大学の児島功和先生からお送り頂きました。ありがとうございました。


目次
まえがき―学生の育ち・学びを支える大学教育・大学政策・大学評価を目指して― 川口洋誉
第1章 青年期教育としての大学教育を拓くための研究課題―発達心理学の観点からノンエリート青年の発達保障と大学教育を考える― 西垣順子
第2章 大学の大衆化と大学・高等教育政策の展開 中嶋哲彦
第3章 大学生活と経済的困窮 小島功
第4章 学校と職業の間で―短期大学教育実践報告― 古里貴士
第5章 障害学生支援の動向と展望―豊かな青年期の保障に向けて― 金丸彰寿
あとがき 西垣順子

また、注目したいのが、経済的に困窮する大学生の見せるまじめさである。奨学金を受給することや学費を自己負担することそれ自体がまじめさを促しているのだとすれば、奨学金や学費自己負担は教育社会学でいうところの「隠れたカリキュラム」として機能しているともいえる。いわば貧しさが大学生を学業へと疎外しているともいえるのではないだろうか。冒頭1節で述べたように、大学学部(昼間部)の奨学金受給者割合は全学生の半数に達しているなど、経済的にゆとりのない大学生は増加傾向にある。奨学金問題対策全国会議編(2013)は卒業後に返済が求められる多額の奨学金を多くの学生が受給するリスクを指摘しているが、奨学金を借りることが大学生活それ自体に与えるリスクもあるのではないだろうか。「奨学金を受給し、学費を自己負担する大学生は学業に対してまじめでよい」という素朴な話ではなく、経済的な困窮が何らかの形で大学生活の可能性を縮減、言いかえれば、大学生を委縮させている可能性もある。
第3章、61頁

そもそもまじめな性格であるがゆえに「奨学金受給・学費自己負担」のうえで大学に進学して積極的に学業に取り組む学生がいるということなのか、「奨学金受給・学費自己負担」という経済的な負担こそが学生の性格にかかわらず学業に向かわせるということなのかについては、データの制約上わからないことではある。筆者は後者の可能性が高いと判断しているようで、似た事例を思い起こせば確かに米国における高い授業料、本人負担(学費ローン)、学業への積極性の関係はそうした理由で説明されることがある。今後のさらなる分析が待ち遠しい。
また、上記引用の「可能性の縮減」というのは、課外活動によって学生は「成長感覚」を得られることがあるとされる一方、学費を稼ぐために働かざるを得ない学生はその機会を失っているというのが一つの事例である。課外活動というと教職員のみならず学生からも「ウェイ」や「ワンチャン」(こんなスラング、もう古いか?)などと揶揄されることもあるけれども、企業が新卒者の採用活動で重視することもあるといわれるように(それはそれで別の問題もあるのだが…)、この雑誌の発行元である学会のねらいにあるような発達保障という点でとても大事なのであろう。大学が学生の「居場所」になることに失敗し、授業を受けるだけの通過点にしかなっていないことの問題点はこれまで様々な関心から指摘されてきたことである。経済的な困窮が大学の授業以外の経験へ影響を与えることについて、残された課題は多いはずだ。

昨日の就職ガイダンス「『インターンシップ』と就職活動」は先週と同内容で、別の就職支援企業の方にご講演頂くというものであった。私は時間を15分頂いて、大学での学びとインターンシップを結びつけることに関する手掛かりを紹介した。今回は事前の案内もあったためか、2、3割の学生がノートやメモを取っていた。それを見て、インターンシップが実質的に始まっているような印象を持った。
以下、私が取ったメモである。前回も含めて私がもう少し知りたいことの一つは、多くの学生がインターンシップに行くのは1社だけであるのにもかかわらず、志望企業への向き不向きがわかるようになるという理由、就職活動の際にエントリーシートを丁寧に書けるようになるという理由である。「社会人基礎力」のうち「考え抜く力」が発揮されれば、この理由は明らかになるだろうか。なお、「社会人基礎力」そのものを「考え抜く力」で考えた私なりの結果については、4月にお話ししたとおりである。

5月18日(水)13:45-14:25(40分間)


マ*の登録カードすでに提出しましたか?マ*がインターンシップ応募書類提出率ナンバーワン


インターンシップとは?説明しろと言われたらわからないのでは、就業のプレ体験、簡単に言えば、試しに会社で働いてみること
5年スパン、10年スパンで働くことを考えるとインターンシップは重要


いちばん最初に入った会社で長く働くことが皆さんにとって大事、しっかりとインターンシップで学んで、早期離職(3年3割)とならないようにしよう


企業・業界研究ができる、自分の適性を知ることができる、職業選択の視野が広がる、早い段階で就活の実践経験を積める、本選考のアピールポイントになる


文科省から企業、大学へ採用と選考を切り離すように言われている、経団連も同様に切り離せと言っている、しかし、どこの世界にもウラオモテがある、一部企業は、直接的に選考しているわけではないが、優先的に説明会の案内を出したり、何かしら有利になるような配慮をおこなったりすることがある、それらはネットのシューカツサイトには書いていない


インターンシップには役立つという学生の感想が多い。インターンシップに参加して嫌になっても、その企業を避けられるという意味で役に立ったことになる


志望動機が書けるようになる
エントリーシートはだいたい企業(その商品、サービス)を褒め称える内容にしかならない、だから私は働きたいと言われても企業にとってメリットはない、買ってくれるお客様でいてくれればよい、皆さんは、そうではなくて、その企業で何がしたいのかを伝えなければならない


インターンシップに行くことで、リアルな目線で志望動機を書けるようになる、利益を生み出す仕組みがわかる、企業でできることがわかる


インターンシップ参加者の内々定の確率は、どの属性をみても高くなっている


インターンシップの最新トレンド、6月下旬〜7月上旬にかけて大手企業の夏のインターンシップ募集がピークになる


昨日、東京大学インターンシップのガイダンスをしてきた、自動車メーカーはインターンシップの締め切りがとても早い、などについて教えてきた


サイトを使い始めたら、まず締め切りを確認することが大事
インターンシップは8月、2月が多い。8月のほうが日数が長く、濃密な経験ができる、2月は1日、2日が多い
インターンシップの選考に落ちても、就職活動で落とされるわけではない。インターンシップにエントリーすることでマイナスになることは何もない。インターンシップに重複応募して、どれかをキャンセルすることになっても何も問題はない。しっかり連絡を入れればよいだけ。


以前の参加率2割、3割の時代は「意識高い」系学生のものであったが、6割をこえたこの2、3年では一般的なものになりつつある。今後、8割程度まで上昇するだろう。


インターンシップに参加するために必要な準備とは?情報収集、応募書類
サイトへの登録カードは難しいものではない、濃くしっかり記入


最後に皆さんへアドバイ
例年旅行会社の人気が高い、しかし実際のイメージと実際の仕事はかなり異なっている(トラブル対応、ミス対応、クレーム対応)、正確な状況把握、冷静沈着であること、精神的にタフであることが求められる、消費者目線ではいけない、生産者目線にならなければならない


インターンシップで就職活動を有利にするという目的を持ってよい、コミュニケーション能力、主体性が大事(自分で考えて自ら行動する力、企業に入って活躍してくれそうなこと)


インターンシップの参加率が上がっているので、参加しないとかえってその理由を問われることにもなる

文系修士課程院生の進路をテーマとして、6月の大学教育学会と9月の教育社会学会で発表を行うべく準備を進めている。ところで、院生の「能力獲得」については2つの異なる意見があるようで困惑している。
一つは次のような意見である。


http://d.hatena.ne.jp/naokimed/20091021/1256073568

大学院で研究を行う上で最低限必要な能力というものがあるはずですが、それとは社会科学の場合であれば表題に挙げた3つかなと思います。これらの3つはいずれも、20代前半くらいまでに身に付けないとその後はなかなか身に付きません。身に付けようと努力したけれど身に付かなかった人は、少なくとも研究者への道はあきらめるしかありません。
(上記ブログより)

私がかつてそうであったリカレント院生(?)ではダメだということになる。これを証明する根拠があるのかどうかはわからないのだけれども、また、自分の人生以外はどうしても否定したいという誤りゆえのことなのかわからないのだけれども、皆さんは同意なさるのだろうか。私じしんがその証拠事例だというご指摘はどうかご容赦を(笑。
そして、もう一つは次のような主張である。


https://twitter.com/eliassien/status/729102946617556992
https://twitter.com/eliassien/status/729105487740833793



努力の「見返り」は必ずしも約束されるわけではないという点は共通する一方、学ぶことで成長する時期は人によって違うのだという点で異なっている。
私の狭い経験の範囲内、バイアスのかかった認識では、前者に沿わない事例を複数知っている。特に私の分野ではリカレント院生(?)を経て研究者となった事例は少なくない。大学職員から院を経て博士号を取得するとか、民間から院を経て高名な研究者になるとか、よく聞く話しなのである。ここではお一人お一人の名前を挙げることはしないけれども、同業者の皆さまは複数の方のことを思い出せるであろう。この理由は当該分野が「社会科学」ではないからなのか(え、そうなのか)、あまりにも特殊なのだからなのか。
職業研究者になるかどうかはともかく、大抵は大学院で苦労するし、しかし、その程度は人により異なるのだけれども少なくとも成長しないわけではないというような印象を持っている。また、そもそも、成長の程度はその努力の程度だけではなく様々な環境にも大きく影響される。たとえば、アルバイト、家族の介護や看護などに時間を取られてしまう院生、学部生や中高生の頃に研究に関連することがらにあまり触れる機会がなかった院生、そして、数年前の高等教育学会で発表したことで言えば院が小規模だったり地方にあったりしてピア・グループに所属できない院生は大変だろう。それぞれの主張をなさったお二人に対して、これまでに各所で提起されてきたメリトクラシーの論点をふまえつつその妥当性をあらためてお尋ねしてみたい*1
ともあれ、このテーマはあまりにも根拠がなさすぎて、このエントリにしてもほぼ経験談しか語っていない。2回の学会ではこれらに焦点を絞った発表になるわけではないものの、少しだけ関連するので考察を深めておきたい。

*1:二宮科研の皆さま、さらにこれに関連して。アカデミズムにおけるメリトクラシーも隠れたテーマですね、はい。