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パンドラの箱とは何のメタファーか

大学の「初年次教育」科目がどんどん増殖する理由 大学教育の「パンドラの箱」:初年次教育という憂鬱(3) | JBpress(日本ビジネスプレス)

 

JBpress(Japan Business Press)というウェブサイトに掲載された、児美川孝一郎「大学の『初年次教育』科目がどんどん増殖する理由、大学教育の「パンドラの箱」:初年次教育という憂鬱(3)」(2016年8月25日)という記事が不可解である。

まず、初年次教育の説明が不十分である。児美川によれば初年次教育とは「入学した大学・学部への理解を深め、大学生としての主体的な学びへの姿勢を手ほどきし、文献の読み方、ディスカッションの仕方、レポート・論文の書き方、プレゼンテーションの方法等を伝授すること」であるらしい。確かに、それらは初年次教育の一部ではあるものの、そもそも米国由来のこの概念の力点はそこにあるわけではない。高校から大学への円滑な移行を目的として、学習への適応もさることながら大学生活全般への適応をねらいとするものである。児美川は後者を省略して、前者だけに焦点を合わせた理由を述べないのはなぜだろうか。たとえば、ファースト・ジェネレーション問題やインセンティブ・ディバイドについて知らないわけではなかろう。大学固有の文化に慣れるということは決して容易ではないのである。初年次教育分野の研究をおさえていないのではないか、という疑問を持ってしまう。

次に、リメディアル教育との混同である。児美川は現代における一部の学生を次のように評価する。

学生のレベルが一定水準以上であれば、これだけの内容であっても、それを半期または通年の1科目でこなし、初年次教育科目を、大学での学びへの有効なキックオフの機会として活用することは、もちろん可能であろう。しかし、学生のレベルが一定水準以上という条件が満たされない場合には、どうか。

そもそも初年次教育は、現在の大学には、かつては大学には来なかったであろう学生の層が、大量に入学するようになったという事態に端を発して登場したものである。とすれば、学生のレベルに期待するような条件設定は、はなから非現実的であり、ナンセンスでさえある。そもそも期待できないからこそ、初年次教育が必要になったのである。

「大学には来なかったであろう学生の層」の意味するところは不確かである。もし、高校までに身に付けるべき知識が不十分である層という意味ならば、それに対応するのは初年次教育ではなくリメディアル教育である。そして、十分に身に付けた層に対して初年次教育は不要であるという主張にも読めるのだけれども、だとすると銘柄大学においても児美川の言う初年次教育の導入が進められた理由がよくわからない。

また、銘柄大学においても初年次教育のなかで、FYEのE、つまり経験、課程外のプログラムとして(児美川による規定には入っていないような)対人関係に関するトレーニングを実施しているところもある。そのことも「学生のレベルに期待するような条件設定」からは考えられないとして否定するのであろうか。

児美川の認識の奇妙さは以下の主張にも見られる。

初年次教育が効果を上げないということは、“学生たちの学習意欲を減退させ、学業への不適応を大量に生んでしまうかもしれない”というリスクと裏腹の関係にある。そうした学生の中から留年者や中途退学者が数多く出るようになると、これはこれで別の意味での経営問題となる。

とりわけ、初年次教育を全学的に手厚く実施している機関では、学習意欲の減退によって学業への不適応が生じるという因果関係をあまり想定していないのではないだろうか。そもそも、学習意欲が低い、あるいは、意欲に凹凸がある(じぶんの興味関心外の学習は遠慮したい)ことを前提としているだろう。もし、児美川がそうした機関ではないところについて主張していて、かつ、初年次教育の効果が不足することからそうした因果が発生しているというのならば、それでもなお、それがほんとうに初年次教育の問題なのか、もう少し慎重に検討するべきではないだろうか。教育の効果なるものを安易に見積もるべきではない。

そして、次のような主張からも先行研究を把握しているのかどうか、危惧してしまう。

懇切丁寧で、面倒見のよい指導をすれば、学生たちの知識やスキルの水準を高めることはできるが、彼らの自主性や主体性を引き出すことになるとは限らないのである。むしろ、教えてくれるまで待つという姿勢を身につけさせてしまう。

この課題は、すでに初年次教育学会等で議論されてきて、解決が試行錯誤されてきたものである。また、もう少し言えば、これは初年次教育特有の課題ではない。主体性を強制によって引き出そうという公教育のパラドクスの問題である。どうして、児美川がそれを初年次教育のみに焦点を合わせて論じようとしたのか、その理由はわからない。

最後に、児美川は「初年次教育の狙いは、学生たちを、自ら思考し、判断し、表現する主体的な学びの担い手へと育てることにあった」とするものの、それは必ずしも一般的ではない。研究者間では、濱名篤が繰り返して言うように「主に大学新入生を対象にした、高校からの“円滑な移行”をはかり、学習及び人格的な成長の実現にむけて、大学での学習と生活を“成功”させるべく、総合的につくられた教育プログラム」が初年次教育であると理解されているだろう。「成功」という言葉はいかにも米国的でむず痒くなるところではあるが、これはマーチン・トロウがユニバーサル・アクセスという理念系を示して、その中で主張した「万人の義務」「開放的(個人の選択意思)」に対応するものであろう。ユニバーサル・アクセス、そして、それに必然的に伴う対応を揶揄、拒否し続けることについて、また、この記事に表れている学力観、学校知識観について教育学者の見解を聞いてみたい。