http://jukugi.mext.go.jp/library_view?library_id=308


「リアル熟議」が私の身近で開催されるようです。しかし、私は強い懸念を持っていて賛同できません。
その理由は複数あるのですが、大きなものとしては、第一に、文科省(または鈴木副大臣)の言う「熟議」の有する限界に関して、政策立案の技術的な点、政治学・行政学の理論的な点、いずれの点においても検討が不足しているようにみえることです。限られた参加者*1の声のみが当事者が意図せずとも特権視されて政策上の言説として「消費」されてしまうこと、キャンパス内で周縁化・不可視化されている人びとをますますその位置へ固定化すること、こうしたことに対して言いようのない不安を感じてしまいます。言わば、日本型「失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ」のデメリットが強く出現しているように思えます。

失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ

失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ

学生の皆さんにはユルゲン・ハーバーマスを引用するだけというのではなくて、そこからオリジナルな論点を引き出したうで「熟議」の限界を克服することを強く期待したいのです。
第二に、皆さんに就活のための手段、言わば面接やエントリーシートのネタづくりにしようとする意図があるように見えてしまって、ほんとうに教育を「良く」したいとは思っていないように見えてしまうことです。休日に100名近い人びとを動員してまで「解決策」を編み出すのだとしても、「次なるアクション」への見通しがわからないのです。なぜ文科省が用意した「熟議」の枠組みに拘泥する必要があるのかもわかりません。このブログでよく言及することですが、目的であったはずの「教育改革」がいつのまにか手段にすりかわってしまう状況が生じているのかもしれません。

http://jukugi.mext.go.jp/library_view?library_id=292

文科省が提供する「熟議虎の巻」どおりに議事を進行していくつかの成果が得られるのだとしても、至高の成果が就活のネタであることにはならないことを願うばかりです。

*1:流行り言葉で言えば「意識が高い」学生ですが、私の言葉で言えば「意識に偏りのある」学生です―当然、私にも相当の「偏り」があることを否定しません。