鍵のついた書籍を読み上げる時代からの長い伝統を持つ講義法について

講義法 (〈シリーズ 大学の教授法〉2)

講義法 (〈シリーズ 大学の教授法〉2)

待ち望んでいた書籍が出版された。たとえば、これまでアクティブ・ラーニングに焦点を絞った関する良書は複数刊行されてきたものの、日本語で書かれた「講義法」についてはあまり良いものがなかったように思われる。教育学に依拠して書かれたものは理論ばかりに着目していて、実践的なものではなかったといえるだろう。しかし、この本は実践的であるうえに、読み手である学者を満足させられるようなその実践を支える理論(心理学、コミュニケーション論など)も紹介している。単なる授業方法のハウツーを示されただけでは納得できないという学者のことをよく考えているのである。
ところで、アクティブ・ラーニングに対する批判の類型の一つに、講義/座学こそがアクティブ・ラーニングであるというものがある。「アクティブ」というと身体を動かすとイメージがあって、その中には精神的な知的活動も含まれるはずであるという主張である。それは十分に納得できるものであって、本書では講義法を「学習者の知識定着を目的として、教育者が必要に応じてメディアを使いながら口頭で知識を伝達する技法」(4頁)と定義した上で、あくまでも講義/座学の中で学生がいわば「アクティブ」になる工夫を紹介している。以下はその一例である。

聞き手は、自分に話しかけられていると思わないと真剣に話を聞いてくれません。そのように思わせる方法の一つが、聞き手の目を見ること、つまりアイコンタクトをとることです。これは簡単な行為に思えますが、実際は難しいものです。1対1の場合は問題なくアイコンタクトをとれても、多人数が相手の場合は視線をどこに向けてよいのかわからず、教室の天井や後ろの壁を見ながら話す教員も少なくはありません。黒板やスクリーン、あるいは教科書や講義ノートを見つめながら授業を続ける教員も多くいます。これでは、非言語コミュニケーションを通して、学生には関心がないというメッセージを発信していることになります。
アイコンタクトをとる際の注意点は、漠然と全体を流すように見ずに、一人ひとりの目を5秒程度見ることです。その際、一つの文章ごとに1人の学生に視線をあわせるようにし、文章の途中で視線を移さないようにします。これを「ワンセンテンス・ワンパーソンの原則」と呼びます。
(略)
アイコンタクトをとることには、別の意味もあります。学生の表情や行動に視線を向けて、よく観察することで、理解度や興味・関心の程度を把握することができます。たとえば、教員を見る量が多い学生ほど、授業の理解度が高いことが明らかになっています。また、学生は興味深い場面で、「顔上げ」行動をとったり、微笑みや自発的なメモの量を増加させる行動をとったりします。
90-91頁

スライドに書かれた文字をそのまま読み上げないようにしましょう。「読む」対象と「聞く」対象が同じなので、学習者は重複感や単調さを感じてしまいます。これを避けるためには、スライドを読み上げ原稿のように作成しないことです。スライドは説明する内容をすべて書くのではなく、箇条書きにして、口頭のみで伝達する情報の余地を残しておきます。
そして、口頭のみで伝達する情報については、学生に視線を向けて話しかけるように説明します。講義法の主たる伝達媒体は口頭であり、スライドはあくまでもその補助手段であることを忘れないようにしましょう。この際、スクリーンやパソコン画面を見る機会は最低限にしながらも、口頭での説明内容とスライドの提示内容がずれていないかどうかをときどき確認しながら話します。
116-117頁

私が特に参考になったのは「スコープ」を定める方法についての整理である。教育学でいう「スコープ」と「シークエンス」の「スコープ」である。これまで「教科書準拠」や「学問準拠」ではない種類の授業を担当することが多く、そのスコープの定め方を経験的には理解していたつもりであったのだけれども、うまく言語化できていなかったためである。たとえば、以前の勤務先で担当した「大学での創造的学び」は、「学習者欲求準拠」でスコープが定まっていた。学生が望むことを予想して、内容について決定する方法であって、「多様なニーズをまとめあげ、それらに対応する内容を短時間で用意する必要があるという点で、教員の負荷は高い」(38頁)とのことである。書かれているとおり、学生のモチベーションが低い場合、さらに難解になる方法である。また、別の勤務先で担当した「現代若者論」は、「社会問題準拠法」である。わけのわからない(?)社会科学に触れ始めたばかりの学生に対して、身近なトピックを扱うことでモチベーションを高めることを目的の一つとしていた。「各種メディアを通じて、国内外や地域の事例・トピックを幅広く収集する必要があるという点で、教員の負荷は高い方法」(37頁)である。私の仕事は学生理解が必要なので当然そうした「収集」は常日頃から行っているのだけれども、やはり負荷は確かに高い。ともあれ、私自身の仕事に名前が与えられたような印象を持ったのである。


荒牧、桐生、昭和各キャンパスにいらっしゃる同僚の先生方へ
本書に限らず、授業に関する書籍百数十冊を研究室で所蔵しています。個人所蔵のものでありますけれどもご関心のある方にお貸しすることもできますし、できればこうした書籍を数冊ご購入頂けるとありがたいです。

「若者論を読む」勉強会

群馬大学 2017年度「若者論を読む」勉強会


毎月1回90分程度、「若者論」に関する自主的な勉強会を行っています。群馬大学の学部生、大学院生なら誰でも参加できます(自主的な勉強会の単位取得は関係ありません)。
これまで、

趣味縁からはじまる社会参加 (若者の気分)

趣味縁からはじまる社会参加 (若者の気分)

ブラック化する教育

ブラック化する教育

をの一部を読みました。次回は、コミュニケーション能力、「キャラ」化についての本を読む予定です。引き続き、参加者を募集しています。詳細については学内に掲示しているチラシをご覧ください。

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第3回(2017年6月14日の様子、おやつにもみじ饅頭を食べながら)

『反「大学改革」論』本が出ます

6月中旬に『反「大学改革」論:若手からの問題提起』が刊行されます。


(出版社さんから掲載許可を頂いた書影です)
https://honto.jp/netstore/pd-book_28478516.html
(honto:本の通販ストア)

本書の趣旨と問題意識
「これから大学はどうなっていくのだろうか」。
いま、この問いをもっとも切実に受けとめているのは、いわゆる「若手」、つまり三十代から四十代にかけての大学教員・研究者であろう。この世代は、一九九〇年代以降、急速に進められてきた一連の「大学改革」のただなかで、大学、大学院、そして大学教員・研究者生活を経験してきた。つまり、この世代は、自分たちが学生の頃に経験した「大学」が急速に姿を変えていく、その過程を、肌身をもって実感してきた世代なのである。また、文部科学省が主導する「大学改革」――もとより、文科省もまた、他の省庁や財界など、複数のアクターによるさまざまな要求の変換装置でしかないともいえるが――に、恩師をはじめとする上の世代の大学人たちが、不満や絶望を漏らしながらも従わざるをえないでいる状況を、間近にみてきた世代でもある。
(略)
編者、執筆者のそれぞれが、煩瑣で膨大な大学業務、あるいは生活をつなぐための非常勤講師とアルバイト、そしてそれらの合間をぬってかろうじて継続する自身の専門的研究で、ほとんど完全に忙殺されているなか、上記のような営みを遂行するにはかなりの労苦をともない、しかもとうてい十分になしえたとはいえない。しかし、それを承知のうえで、あえてわれわれは、不十分な本書の出版に踏み切ることとした。なぜなら、本書の何よりの目的は、大学と大学改革をめぐる、すべての大学人による公共的な議論のための呼び水となることにほかならないからである。「目的」というよりも、それがわれわれの「願い」であるといったほうが正しい。
「はじめに」p.ⅰ~ⅴ



 私は執筆者の中では、最もいわゆる「大学改革」に近い、いや、その言葉どおりの仕事をしてきたのでしょう。そのため、私がそれを批判的(否定的ではない)に論じることについて、不可解である、優柔不断である、修正主義者であるといった感想や疑念をお持ちになる方もいるでしょう。しかし、私としては日々大学の外部はともかくとして、大学の内部からも様々なご要望を頂戴して、その中には「大学改革」として提案されていることがらが相応しいものもあることゆえに、必ずしもすべての「大学改革」を否定するべきではない、しかしながら他方同時に、この本で書いたように教育学や、教育諸学の学説上不適切であることについてはしっかりと指摘するという立場をとっていることから、小さな論考を書かせて頂きました。こうした立場については、たとえば国家対大学、大学対財界、教員対学生といったように、何かしらのものごとを二項対立でざっくりと捉えたい要望がある場合には理解しにくいかもしれませんが、実践であれ理論であれ、「グリッド」をできるだけ細かくして考察するということが大切だと考えています。


 そのような扱いづらい立場をとるもう一つの積極的な理由は、学生によって「大学改革」が迫られているという現状認識があるためです。マーチン・トロウという米国の社会学者による高等教育の発展段階論は有名でしょうか。トロウは概ね若年層の人口に占める大学在学の割合が15%までをエリート型、15%から50%までをマス型、50%以上をユニバーサル型と名づけて、高等教育の「理念型」(理想の形という意味ではなく、社会学の考え方の一つですね)を示しました。そして、私がトロウによる整理の中で重要であると理解していることが、それらの段階の移行時点で、いくつかの矛盾が生じるというものです。これまでよく言われたことは、エリート型からマス型への移行段階での、世界的に流行した学生運動との関係です。現代に比べて通信手段が便利ではなかった60年代において一斉に学生運動が盛んになった理由のうちの一つを、当時の大学の変容に求めるというものです。日本の場合、「教授たちよ、研究室でのうのうとレコードでクラシックなんか聞きながら研究しやがって、俺たちは大学を出てもサラリーマンにしかなれないのに」という台詞があったでしょうか、大学生の位置付けが官吏や財閥系社員になることが決定されている戦前のようなエリートではなくなったにもかかわらず、講義(知識)の内容やその伝達形式、教員の振る舞い、教室の雰囲気、正統であると認められる文化等がそれに対応していないことへの苛立ちも関係していたかもしれません。そして、当時は「大学改革」という言葉は使われていないのですが、実は70年代に少しずつマス型への軟着陸が政策として進められました。学生から不評であった一般教養科目の柔軟化、私学助成を通じた教室や教員一人あたりの学生数の改善が行われたり、最も知られていないところでは、すでに今でいうリメディアル教育が開始されていたりもしました。


 さて、2016年3月の高校卒業者のうち、大学・短大進学者は54.8%、専門学校進学者は16.3%、合わせて71.1%でした。トロウの言うユニバーサル型に辿り着いています。エリート型の時代にマス型の在りようを予想できなかったのと同じように、マス型の時代には想像できなかったユニバーサル型の大学が実現しています。かつての学生運動とは異なる方法で、学生は問題を提起しているかもしれません。「先生たち、じぶんの好きな研究で給料貰えてていいよな、いろいろ自由そうだし、ネットでつまらないことばかり言ってたりするし、私たちは面倒で大変なシューカツをして『社畜』になるばかりのブラックな日常にいるのに」という声もあるでしょうか。学生による要求のうち「大学改革」と重なるもの/重ならないもの、対応するべきもの/するべきではないものを考察して、「大学改革」に関連するから全否定するというのではなくて、実践する/しないを決める必要があるはずです。

 
この本は、まさにその「現場」の最前線にいる若手が、安易に何かを決め付けてしまうことなく、「現場」の問題に向き合うために様々な矛盾や、ことがらのせめぎ合いに関してじっくりと考えたことの成果がまとめられています。執筆者陣の学問分野は多様なのですが、それぞれの論考から同じような張り詰めた学問的緊張感と、学生に向き合う厳しい真剣さが伝わってきます。執筆に関われたことを深く感謝しております。

研究プロジェクトのウェブサイト

大学における新しい専門職に関する研究

科研のプロジェクトのサイトをつくりました。研究成果等の発信を行う予定です。
「第三の領域」についてどちらかというと研究者の立場からみているという限界があるので、職員からみたそれについては不十分であることが予想されます。学会等でご批判を頂ければ幸いです。
ところで、コラムって何を書けばよいのか、悩んでいます。

絶望かもしれないけど運動するよ(春の若者論三本勝負最終戦)

春のひとりで若者論を読む企画、第3回(最終回)である。2017年3月に発売されたばかりの新刊を読む。思いつくままに感想を書く。整理された文章ではなく恐縮である。

社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治

社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治

なぜ若者を対象とするのか、その場合の若者とは誰のことなのかについて、第1章の導入部分、第2章の分析の準備部分で紙幅を費やして説明が行われている。そのことじたいが興味深く、単に社会学において学術上の意義があるから当然だという言い方では理解を得られないという、現代の若者を巡る状況が垣間見られるのである。

本研究において若者をどのように定義するかということは、単なるインタビュー対象者の選定にとどまらない、本書の意義を考える上でも重要な作業であろう。
(略)
しかしなお、年齢・世代という変数によって対象者を選定することは、ある特定の集団(本書では「若者」)による集合的な社会運動への参加や、個人的に日常生活を営む上での人的ネットワークなどをみる際に、社会運動サブカルチャーの特質を把握する手がかりになると筆者は考える。若者たちの多くは、学校生活を通じて友達を作るために、同年代・同世代の知人・友人が多くなる。また、実際に同じ教室空間や校区にいなくとも、共通の世代体験や、同じ時期に享受した音楽やファッション、スポーツといった文化によって仲良くなるということもある。このように生活の基盤において共有すると仮定される面が多くあるならば、構造的にも認知的にも、互いの政治的な「こだわり」た「しきたり」を共有しやすい状況にあるだろう。つまり、日常において(社会運動的なものに限らず)サブカルチャーが伝播しやすい構造的な条件がある。本書は、社会運動サブカルチャーを「出来事」と「日常」における、個人的もしくは集合的に行われる世辞的な営みが連関することで共有される、こだわりやしきたり、規範や常識の源泉として捉える。
66-68頁

おそらく筆者はK. マンハイムの「経験の層化」を念頭に置いている。そのうえで、若者を対象にすることの意義を主張している。本書は運動への参加に関心を持つものであるため、そうした社会学の世代論に深く立ち入るわけではない。しかし、同時に、運動に参加する若者による年長世代に対する違和感などについては、長い間研究されてきた世代論として読むのも面白いのかもしれない。年長世代が運動の場に持ち込もうとする奇異な(?)習慣がどのように受けとめられているかについては、ぜひその世代の当事者に本書を読んで頂いて理解を深めてほしい。
私が「よくあることかも」と思って納得したことの一つが、その世代間の認識のずれについてである。

若者たちは場合によって年長者の会合に招聘される側に回ることもある。彼らはカフェやクラブに学者やジャーナリストを招き、専門的な議論を行っていたが、若者たちが体験する限りにおいて、年長者たちの学習会は彼ら自身が主催するものと大きく異なるようだ。
(略)
A12氏(二宮注:年長者の勉強会にスピーカーとして呼ばれた10代)の半生を聞いた聴衆が、彼女の世代なりの体験や、出身地で過ごした記憶、現在の問題意識といったものを聞いて、自分の活動や学習に活かしているかといえば、それも少し異なるようだ。「孫を見る目」「その調子で上手く成長してくれ」といった聴衆の目線は、むしろA10氏の言葉を借りればやや「パターナリスティック」ともいえる、ライフヒストリーの語りをもって「若者」として扱われた彼らは、運動の中で「新しい」担い手として持ち上げられると同時に、無垢であったり、未熟な存在として、時として見下しの視点をもって迎えられることになる。
99-100頁

私の隣接分野である民間教育研究運動の雰囲気を思い出す。自発的に集まった年長者が同じく自発的に参加した若者を批判し始める。本人はまさに「親心」なのかもしれないが、若者からすれば端的に言って「ウザい」。職場でも厭な思いをさせられるのに、なぜ私生活の場でも同じような目に合わなければならないのか。そのうち、若者はその運動を敬遠するようになり、年長者ばかりの運動体になっていく。若者が来ない理由を考えるなどという座談会が行われて、会費を安くしようという案が出される。しかし、当然それはあまりよい解ではないので、ぜひ教育運動の方も本書を読んで頂きたい。
運動の外部に対する訴求方法もまた、若者と年長者とでは異なるようである。

若者たちは、社会運動に参加しづらい理由として、社会運動の「特殊」さ、「へんてこ」な感じ、「異様」さといった言葉を用いる。こうしたイメージは、担い手が年長者中心であることと関連して、若者たちに年長活動家、またどこかで見た/聞いたことのある「古い社会運動」への反発を抱かせる原因となる。そうでない人々もいるものの、多くの若者たちは年長者の用いる「組合の幟」や「『モテたい』ってプラカ」といった、活動の主張とは直接関係ない主張を行うためのアイテムを排除し、つとめて他の運動参加者と「同じ」であり、外からみて「普通」でいられるような空間を作る。
114頁

組織運営も、既存の社会運動組織が徹底し、配慮してきたものとはやや異なる。たとえば会議の運営において、社会運動の理念と大きく異なるようなビジネス書、ファシリテーション本なども参考にすることがあるという
こうした転換は、組織運営に込められた規範も覆してしまう。いわゆる左派やリベラルといった立場にある活動家たちは、平等主義や誰もが水平に参加できる組織運営、多数決によらない、議論によるボトムアップ型の意思決定といった要素を組織運営に込めてきたが、若者たちは必ずしもそうした手続きにこだわらない。
125頁

これらの分析は圧巻で、確かにそうなのだ。関が原の合戦(ほんとうはどうか知らないけど)みたいな幟はない―あったとしても、メディアには写らないような場所での待機。そして、それにも関連してそもそも組織運営の方法が違うのだろう。日本の運動が、特に40年前前後からの諸々の運動体がほんとうに「平等主義」だったどうかは留保が必要であるだろうとはいえ、手続きではなく運動の実質を重視している、そして、それが「普通」の若者に届くように配慮しているというのは、まったくそのとおりである。ただし、同時に、それらのことは運動体の規模に影響されているのではないかという仮説も浮かぶところである。規模が小さいためにその方法が成立するのではないだろうか。たとえば、「ネタ」や「モチーフ」のような符牒に依拠して団体名を決めるというのも、若者固有のことであるのと同時に、小規模だからこそ可能であるようにもみえる。
第4章はタイトルこそ「日常としての社会運動」なのだけれども、実は政治的社会化が課題の中心になっていて、教育学・教育社会学やシティズンシップ論として勉強になった。量的調査で家族や学校による影響を明らかにした研究は複数思いつくものの、お尋ねし難いテーマであるためか質的調査ではあまり見覚えがないためである。

若者たちが政治的に社会化されるきっかけは三つあり、そのきっかけによって関心をもつ主題や周囲との問題共有のあり方が変わってくるため、本章ではその三つのキャリアをカテゴライズした。ひとつは親や学校が比較的平和教育反戦教育、社会運動に対して熱心であるという「箱入り社会派」である。彼らは親や学校から重要とされる政治的課題について考えることを推奨されており、国家や宗教問題といった「大文字の政治」に関心をもつことが多い。それに対して、制服や学校による管理、校則といった周囲の身近な問題から社会に関心をもつものの、そのことを周囲と共有できない「孤独な反逆児」がいる。特に親や学校は政治的なトピックの伝達に熱心でなく、友人も無関心であることが多い。最後に、大学までは無関心であったが、大学での議論や当事者との出会いから政治的な問題に関心をもち始める人々も多くいる。ただ、どの類型にあてはまるにせよ、基本的には「みんなと同じ」「浮かない」ようにしたい、という意識は強くもっていると見受けられる。だからこそ、周囲が運動や政治的な発言に対して積極的であればそれをすることに抵抗がなく、そうでなければ孤独に問題意識を抱えることになる。
207頁

論文ではないので仕方のないことだけれども、現時点から過去を振り返って何かを「きっかけ」だったと言い切ってしまうのは注意したほうがよいかもしれない。あくまでも現時点において当事者がそう思うという認識がわかったのである。このことは読み手が社会学者であれば気にも留めずにそう理解するのだけれども、もしかすると、一般の読者は誤解してしまうかもしれない。自分語りの意味、自己物語論などを想起すると、いつか同じことを尋ねると別の答えが得られるかもしれない。なお、もちろん、紹介される聞き取りデータについては、親や教員との葛藤が丁寧に描かれいて、それほど簡単に影響を受けるわけではない。もし、それほど学校の影響が強いのであれば、二十世紀後半には革命が成功していたはずだという笑い話と同じである。なお、180頁に「高等教育」という言葉が2回出てくるものの、おそらく「高校教育」が正しい。予想・期待される重版の際には、ナカニシヤさん、よろしくです。
もう一つ、教育学・教育社会学として興味深いのは、当事者性に関する指摘である。

本書の分析の結果、若者たちは政治的関心の有無を判断する上で「知識」と「当事者性」を重要視しているようだが、それはなぜだろうか。
(略)
また、当事者性の強調という点では、若者たちが集合行動におけるスピーチや日常のコミュニケーションの中で、自らが政治の当事者であることを主張している点も興味深い。これはシェアハウスや寮でのやりとり、先述した孤独な反逆児たちの身近な問題意識に顕著であるが、日常における家族との戦争にやり取りや「かけがえのない日常」「当たり前の日常」を守りたいというデモでのスピーチなどにも現われている。論理的には「完全に他人の問題だが、関心がある」という動機での社会運動への参加も成立するはずだが、本書で紹介した多くの若者たちは安保問題にせよ、特定秘密保護法案にせよ、「自分にも関連する問題だからこそ関わる」という態度を強く示している。一方で、「非当事者であるが運動に参加する」と主張する人々はほとんどいない。
213頁

この理由についての筆者が提起する仮説は、これもマンハイム同様に明記はされてはいないのだがU.ベックなどの議論を背景としての若者のキャリアに関することがらであるのだが、この説明は私には少し難しかった。SNSで、とりわけ社会運動に対して否定的な若者が「外野がワイワイ言うな」―この場合の外野とは当事者ではないという意味―という表現をすることが気になっていて、どうして「外野」がワイワイ言ったらだめなのか、私はよくわかっていないのである。また、大学生が研究に対して投げかける問いの一つでもある。どうして当事者でもないのに、学者が何かを言えるのか、と。引き続き、私もこうした主張が出される理由を考えてみたい。
ところで、これまで蓄積されてきた若者論との接続を考えてみると、土井隆義による「優しい関係」論がつながるであろうか。土井の言う、他者を傷つけてしまうことをおそれる、他者の気持ちを考えて距離感を保つ、そして、それらは実際のところやや息苦しい、というような心構えである。

たとえば第四章では、卒論や就活を理由に運動を辞め、LINEのグループから抜ける人々と、それに対して深く追求しないメンバーたちの語りを紹介した。この背景には、他人の事情や優先すべきものは、自分にはわからないし、まったく異なる他人に対して「組織」の論理を押し付けるわけにはいかないという「個人化」時代の若者たちの身の施し方があるのではないか。
224頁

最後に、ささいなことだが、先行研究で取り上げられている「政治過程論」について、よくわからなかったので調べてみたい。社会運動論で言及されるそれと、政治学行政学の対象となる、私が一時期勉強していたそれは違うのかもしれない。




社会運動論としては当然だけれども、若者論として、社会運動が「普通」となっている若者論として読まれることを皆さまにお勧めしたい。「絶望の国の幸福な若者たち」で想定されていた若者と比較しつつ。




おまけ:筆者が書いている「マンガを社会学する」、とても面白いのでこちらもぜひ!筆者のことを知ったのはこの企画が先だったかもしれない。細々とマンガ評をしていたので、とても参考になる。みんなもマンガ評をやってみよう。
https://honcierge.jp/articles/manga_sociology