塾講・サイバラ・大学祭

学部生の頃、多摩地区の進学塾で「時間講師」のアルバイトをしていた。池袋に本社のある、W中高に強いWという塾である。時給はかなり高く、授業時間外勤務分は無給であり、かつ、それが授業時間よりも長いという実態であったことを差し引いても―現在よく問題にされている慣行である―、なお学部生にとってはありがたい仕事であった。夏期講習だけで学費半年分以上を手にするほどであった。
さて、仕事を始めてから半年ほど経過した頃、新たに「時間講師」Kさんが採用された。僕よりも年上の女性で、これまでも他の進学塾で経験があるということだった。担当科目が同じであったために仲良くなって話しを伺うと、早稲田の一文の4年生であるという。Kさんは事情があって就職活動はしない一方で単位は取り終えているため、しばらくはアルバイトで生活をするとのことだった。かなりたくさんのコマ数を入れて、塾内でも高給を貰う立場になっていたはずだ。
そんなある日、通っていた大学の学園祭に西原理恵子スペシャルゲストとして来ることになった。学園祭は2種類あって、それはとても冴えない方のお祭りだった。前期課程の1、2年生が通う私鉄沿線のキャンパス―正式名称は分校―で行われるもので、そのお祭りに集まるのはその大学の1年生―男子学生が8割ほど、学部によっては9割5分以上―と近所の小学生だけとイベントである。最近では日本一美味しくない学食が存在したという話題がネットで繰り返されることで有名になったのでご存知の方もいるかもしれない。数年後には取り壊しされることがほぼ決まっていたため行われる補修は最低限で、雨漏り、床の落下、壁の剥がれ、机の故障などが酷かった。近所には女子大があったものの、そこの学生はもう1つの方のオサレなキャンパスで開かれるイケメソ上級生が集う学園祭に行くだけなのだ。
塾での勤務時に、そんなことを冗談交じりにKさんに話してみた。今でいうワンチャンとかではなく世間話しとしてである。すると、Kさんは思いの外、西原理恵子に飛びついた。以前からファンであるので、是非行きたいというのである。ただ、そのものがなしいキャンパスのことはまったく知らず、場所も行き方もわからないという。まさかのワンチャンなのかと思ったものの、Kさんは一人でなんとか行ってみると強く主張する。実のところ、西原理恵子にもKさんにもそれほど思い入れがあるわけではなかったので、そのときこの話題はすぐに終わりになった。後日、Kさんに学園祭当日のことを尋ねてみたところ、西原理恵子にサインまで貰って楽しかったとのことであった。早稲田の学園祭にも西原理恵子を呼べばいいのにと言っていた。





さて、もう何年も経ったので言っていいだろう。この学園祭の約1年後、ある嘘に気づかされることになった。同じ「時間講師」のIさんから「ニノミヤくん、ずっとウソつかれてたよ。もうおかしくって、今日は黙っていられない」と笑いながら打ち明けられるのである。そのIさんは日吉の塾高出身、慶應法学部3年生で、僕がその塾でお世話になったひとの一人である。卒業後は大手広告代理店に就職することになるほど優秀で、しかも親切だった。東京における男子の所作を懇切丁寧に教えてくれて、僕は必死で学んだのだ―ほとんど身に付かなかったけれども。ともあれ、残業をしていて終電を逃した深夜の暇つぶしに広辞苑を使って「たほいや」を遊んでいたときに知らされた事実であった。今でももっと早く教えてくれればよかったのに、と思う。
何がウソだったのか。Kさんは実は同じ大学に通っていたのである。そして、そのKさんはその後漫画家としてデビューすることになり、テレビのワイドーショーでも活躍するようになった。メディアでお見かけする度に、このことを思い出す。

黙り込む教授その2

せっかくなので、以前の勤務校で担当した授業「大学での創造的学び」に関して、その授業を行いながら記録を取っていたノートの一部を公開してみよう。Kennedy Schoolよりは、到達目標が僅かばかり見えやすくなっているといえるだろうか。ノートをそのまま転記しただけなので読み手の皆さまはには理解しにくいかもしれない。120人くらいの学生が縦に長い教室にいることを想像してほしい*1。ほとんどが男子学生であり、そのうち10人ほどが留学生である。

201x年月x日 x-xxx教室


13:20 
二宮 「今日は第4回の大学での創造的学びⅠです。シラバスには達成目標として様々なノートテイキングを体験し、理解する、とあります。今日も引き続き、ノートをとる練習をしてみましょうか」


マイクを使わない
小声
教壇に立たない(教室前方ドア付近で横向きに話している)
なので、学生にはまったく聞こえていない


二宮 「といっても、何を書こうか」


やはり聞こえていない、騒がしい


二宮 「何かアクティビティをやってみますか。私から5つほど提案しましょうかね」


13:25
二宮 「1、1立方メートルに人は何人入るか。2、新聞紙で作る紙飛行機はどれくらい飛ぶか。3、教室の測量。4、新聞紙で作るタワーはどれくらいの高さになるか。5、その他」


小声なので相変わらず聞こえていない
聞こえた前方座席の学生10、20名ほどだけが考えている


二宮 「新聞紙とビニール紐は用意しています」
新聞紙とビニールひもを高く手にする


二宮 「自由に使っていいですよ」


数名のグループ毎ににやにやしながら相談している(教室前方3分の1程度)
後方3分の2は私語が多い様子


前列4、5名ほどの学生が自分たちで司会を立てるかどうか相談中


教室中ほど 友だちに聞きながら5つの案を書き写している
騒がしい


13:30
2人の学生が出てくる
学生「他にリーダーやりたい人は前に出て」


二宮、学生にマイクをそっと渡す


学生1(マイク使用)「さっきの時間で案がまとまったと思います」


学生2(大声、マイクなし)「いいー?必ずどれか一つに手を挙げること。いいね」(なぜだか偉そうな雰囲気)黒板に5つの案を書きだす


圧倒的に2番、紙飛行機への挙手が多い


教室の座席はほぼ埋まっている
学生はざわついている
蒸し暑い


教室前方の図


黒板――――――――――――――――――――
                           話しかける方向←二宮 扉
机           机          机
椅子 椅子 椅子    椅子 椅子 椅子   椅子 椅子 椅子






二宮はいつも通り教卓に立たない、隅で話したり待機したりしている
学生1「多数決になっちゃうんですけど。少数意見の人はそれでいいですか?、1、4、5に手を挙げた人は理由を言ってもらえますか」


学生(右列前から4列目)「僕は1にしました。2の飛行機って、折り方がいろいろあるし、飛ばないかもしれないし、1の1立方メートルの方がすぐできて終われるかなって。だから、そっちがいいかなって」


学生1「さっきの1にした人の意見を聞いて、2にした理由をしっかり話せる人いますか?」


学生(左列後方)「あー、ちょっといいですか(大声)。多数決やった意味ないっすか。多数決だったらすぐ紙飛行機やっちゃった方がいいのでは」


学生1「自分は少数意見を大事にしたいので、多数決だけでは」(言いよどむ)「1、4、5の人、2の紙飛行でもいいですか?」


学生1「よければ拍手を」


教室内、ほぼ満場拍手


学生1「先生、新聞紙使っていいですか?」


二宮「いいよ」
新聞紙とビニール紐は教卓に置いてある(授業開始前から)


学生1「何枚ある?」 学生2、新聞紙を数えて「6枚」、A0サイズの新聞紙が6枚用意されていた


学生1「新聞紙1枚につき、何枚作ります?」


学生2「重さがないから絶対うまく飛ばないです」


学生1、学生2の問いかけが全体に伝わらない、騒がしいので


学生(中列8番目程度、声が小さい)「グループになって、紙を分ければ早く済むんじゃないですか」


学生1「グループは6つですか」
騒がしいので、この問いかけも全体に伝わらない
段取りの悪さに教室の雰囲気が気まずくなる


学生1「グループを作るという意見について何かありますか?」


学生(右列2列目)「なんか普通にやっちゃって、他の意見聞かなくていいっすよ」


学生1「グループを列ごとに3つにわけて、そのグループごとに新聞を2枚渡して、あとはグループで考えるでいいっすか」


学生たち、なんとなく不満
おそらくグループのサイズが多すぎるため、1列に約40人いる


学生1「グループは列ごとに分かれてください、グループごとに集まってください」


縦長の教室なので集まりにくい
湿度が高い、蒸し暑い、教室は不快
空調を入れてという声はまったく聞こえない


学生(中列前方)「時間制限はありますか」


二宮、学生1に対して小声で「最後に紙を書く時間を取って。それ以外は自由に」


この時点で、教室後方も話しを聞くようになっている
私語は少ない、ざわつきもない
スマホをいじる学生はほとんどいない


二宮「みんなノート書いてる?、私は6ページほど進んだよ」
学生「は」「へ?」「え?」
学生は動揺する


学生1、学生2は紙飛行機を飛ばす場所について相談している。最前列の数名と一緒に。


13:51
グループのサイズが多すぎて混乱している


左の列(学生から見て右の列)「右の列、真ん中に集まって!」リーダー1名、サブリーダーらしき学生1名


右の列(同、左)リーダー1名、サブリーダー4名ほど?


中の列 前方の学生しか話しをしていない。中ほどから後ろは放置されている
 と思いきや前方の学生が大声で「真ん中に来てくれ!」と叫ぶ
各グループ3名ほどはひたすらノートを書いている


中の列 4つの小集団に分かれた、ただし、そこに入らない列(3名)が2つほどある


左の列 教室真ん中に集まっている 全員がリーダーを注目、議論している
 全員立っている(他の列は席に座ったままの学生がまだ半数以上いる)
 各自、ルーズリーフでばらばらに飛行機を作成し始める、飛ばしている


教室は全体的にざわついている
暑苦しい
ノートをとる学生の数は変わらず、少ない


14:10
左の列を中心に、ルーズリーフの紙飛行機が散乱する
中の列、右の列もちらほらとそれを真似している
二宮はマイクをこっそり回収(整理整頓の指示を出そうとしたが、電池が切れていたため)


二宮「皆さんは工学部なのですから、整理整頓を心がけてくださいね。教室にゴミが残るなんてありえないですよ。将来の技術者、エンジニアとして、適切な振る舞いを…。整理整頓、スリーエス」
マイクがないのであまり聞こえていない。やや騒がしい。


14:10
学生1「時間になりました。完成した班はリーダーが前に出てきて飛ばしてください」


二宮、学生1と前方学生に対して「『どれくらい』の意味はなに?距離?滞空時間?話したのかなあ。飛ばし方のルールなどは?」
一部の学生が悩み出す、多くの学生は無視
そのまま進行する


学生1「紙飛行機がよく飛ぶように、全員壁側に移動してください」
全員両側の壁に移動する


結局、距離なのか滞空時間なのかわからない。


グループごとに順番にとばしている。しかし、測定方法を決めていなかったため、慌て出す学生が数名いる。とりあえず、飛行機の着地点に学生が座り込むことで対応している。


二宮「いま、私のノートは8ページめ。みんなも進んでる?てか、なんでいまノート持ってないひといるの」大声で、しかし、怒るわけではなくにこやかに言う。数名の学生が慌ててノートを取りに座席へ戻る。


二宮、学生1に小声で「今日の授業計画4、シラバスの計画は与えられた課題を把握する、だね。みんな、できているのかなあ」


学生1、困る。それを他の学生に伝えようとはしない。
二宮、仕方なく同じことを大声で学生に向けて言う。学生多数、困っている。


ずっと中の列でスマホをいじっていた学生にそっと近寄る。ネットを見ていた様子。ノートはわずか、5行しか書けていない。二宮、その学生に「紙飛行機の作り方、なにかネットで見つかった?」学生困る。返事はできない。


学生1、学生2を含んだ10名ほどがビニール紐を使って測定をはじめる。二宮にはそれがどのようにして、測られているのかわからない。目盛りのないただの紐なので。その他110名の学生は何の時間なのかわからない。


二宮、教室を歩き回りながら大声で「ノートは評価の対象ですよ。しっかりと記録できていますよね」


黒板は授業の進行に従って、二宮が右1/10を使って小さく次のことを書いている


1、何をするか(意志決定)
13:30-
2、グループづくり
13:40-
3、紙飛行機
13:51-
工夫・改善点
PDCAサイクル




二宮、大声で「今日の内容1、2、3はそれぞれ工夫、改善点が書かれているよね。Plan/do/check/actも当然あるはず。工学分野ではどの学科でも必要なこと。機械でも電気でも建築でも」
二宮「皆さんは技術者、エンジニアになるはずですから、工夫と改善は絶えず続けなければならないよね」


二宮 教室を歩いていると、中国人留学生から「先生、PDCAって何ですか」質問される
二宮「Baidu知ってるよね、いまスマホで調べてみようか」


14:30
二宮「まとめ用のピンクの紙は教卓にあります。必要になったら取りにきて」
学生、半数以上の学生が取りにくる。


14:32
左列グループ、紙に書き始めたにもかかわらず、リーダーが集合を呼びかける「改善点を考えるので集まってください」グループのほとんどが集まる


14:35
ざわざわしている
すべての学生が紙にノートのまとめを書いている


二宮「今日の合言葉を一度だけ言います、デミングサイクル」
学生「え!」「デミーサイクル?」


二宮 教室を歩き回りながら紙に書くべきことを伝えたうえで、デミングサイクルの説明をする。ざわついているので、かならずしも聞きやすいとはいえない。デミング博士、生産管理などについて早口で簡潔に説明。学生は紙にまとめをしなければならないので混乱する。あるいは、説明を無視する。


前方の学生「デミングってカタカナですか?」
二宮「アメリカ人だから、表記は一般的なアメリカ人の名前の書き方で」学生、当然不服そう。


14:45
二宮 出欠確認、おやすみまえに、日本語検定過去問、第一回中間試験について案内
この授業の履修者は中間試験を受ける義務はないものの強く推奨


二宮「紙が書けたら授業補助者の先生に提出して、授業はおわりね」


二宮、授業補助者に対して紙の提出時にマナーがおかしい場合は受け取らなくてよいと伝える。前方の学生には聞こえている。


提出 数名が受け取りを拒否されやり直しとなる。
1名はかなり強く不満を表しながらも提出「なんすか」と補助者に詰めよって睨む、提出後もなにか言いたそうにしながら退室
もう1名は3回挑戦しても受け取ってもらえない。二宮が数週間前にあった事例の真似を2回やってみる。ポケットに手をいれたまま投げ捨てるように渡す。あごをしゃくって。それをみてようやく丁寧にわたせた。カバンを床におく、なぜか作業服のボタンを締め直す、真正面に立って両手を揃えて提出。

文系の先生方には(私もだ!)あまり縁のないことかもしれないので、この授業の意図がわかりにくいかもしれない。
あえてわかりやすく言えば、この授業の繰り返しで以下に引用するようなノートの作成に慣れることも複数ある到達目標の一つである。それを手取り足取り教えてもらうというのではなく、自らの試行錯誤を通じて「掴み取る」ことを重視している。それこそが冒頭で少しだけ紹介しているシラバスの意味であって、文系の講義ノートとは異なる性格を持っているだろう。ほんとうの工学実験ではないので、失敗してもいいし、あまり書けなくてもまったく構わない。「紙」が提出できなくてもよい。
「教えたほうが、教えられたほうが早い」という主張に対しては「早いことが良いわけではない」とお答えしていた。もちろん、教えられることを模倣することも大事ではあるものの、この授業では模倣の段階で止まってしまうことを問題にしている。また、大事なことなので繰り返すが、到達目標はこれ以外にもたくさんある。何ができないかではなく、何ができるようになるかが評価の着眼点である。
私のノートも同様に思いついたことを何でも記録している。そのため、実は紹介できないこともたくさんある。今回紹介したものは、その中でも比較的問題のない部分である*2
www.huffingtonpost.jp

*1:同じ名称の授業で250人が一つの教室で学ぶこともあった。授業補助者の数を増やすことで対応している。チームティーチングであることが大切なのだ。

*2:ところで、この授業ではネットを使った時間外学習も課していたので、学習量としては十分のはずである。

テストってなんだろう

テストは何を測るのか―項目反応理論の考え方

テストは何を測るのか―項目反応理論の考え方

出版社からご恵贈頂きました。ありがとうございます。
何かを測定したり評価したりする際には繰り返し読み直して参考にするべきテキストです。
私の問題関心としては、第1に、高等教育論の分野において何らかの教育(内容・方法)と学生の成長(知識・技術・いわゆる「汎用的」能力など)を関連させて検討するというときに、杜撰な方法を取っている事例がよくあることです。対象を適切な方法で測定、評価できているといえるのか、不安に覚えることがあります。第2に、高大接続、新しい種類の入学試験に関してテストバッテリをどう組むのか、そもそもその専門家はどこにいるのかという問題です。この専門家の問題については現在研究しているところなのですが、あまり良い展望を見出すことができていません。筆者は次のように述べています。

大学入試センター研究開発部がもっている試験に関するノウハウは、高大接続システム改革会議における議論にはほとんど生かされていないというのが筆者の正直な感想です。それは、高大接続システムに携わる専門家の中に、テスト理論に精通している者が少数であることをみれば明らかです。テスト理論から得られる知見は、入試にも多くのメリットをもたらすことがわかっていますが、それらの知見を前提知識として共有する姿勢の欠如によって、このような事態に至っているのではないでしょうか。
194頁

テストバッテリについても、筆者は国家公務員採用試験の事例を丁寧に解説しています。民間企業についても少しだけ触れられています。おそらく大学の入学試験も多面的な評価を行うためにテストバッテリを組むことになるのでしょう。しかし、どのような組み方が適切なのかについては、まだ研究が浅いような印象を持っています(私が知らないだけなのかもしれません。これから勉強します)。
最後に、テストにまったく関心がない方に対しても、「コラム1「日本的テスト文化」(42-43頁)」だけはお勧めします。0点や満点に特殊な意味が加えられることや、新作問題ばかりが使われることなど、私たちにとって当たり前のテストに関する習慣が実はそうでもないということに気付かされます。

黙り込む教授

http://wol.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/122400041/021500020/

この記事で紹介されているKennedy Schoolの授業が、以前私が日本工業大学で担当していた「大学での創造的学び」に似ているという指摘を知人の研究者から頂いた。
以下、記事の引用である。

「さぁ始めよう」
教授は授業の初めにこの一言を発してから、黙ってしまう。
1時間15分の授業は、学生の言うまま、思うがままに進んでいく。
(略)
初回の授業は、今まで受けた授業の中で、最も緊張した空気が流れていた。何も話さない教授を前に、100人の学生たちがどうにか、秩序や形式を保とうと試行錯誤をする1時間15分だった。
教授が「さぁ、始めよう」と言ってから数秒も経たないうちに、不思議と次から次へと学生が話を始めた。なぜ自分が授業を履修したのか話す人、リーダーシップとは何かと説明しようとする人、この授業から何を得たいか話す人…“自己紹介をしよう”と提案する学生が出たと思いきや、何となく話が流れてしまう。
どのような目的や意味を持ちながら、周りの学生は発言をしているのか。秩序を求めている一方で、提案に付いていかないのはなぜなのか。初回の授業では多くの疑問が残った。
(略)
学生に主導権が委ねられた慣れない空間で、一人一人の個人がどう適応して、クラスとして前進できるか。「権威」を持つ人がいない中、リーダーシップとは単なる役職やポジション、あるいは指導者の手腕ではなく、それぞれの人が発揮するものなのだと感じる。
このような気付きや考察を繰り返すことによって、リーダーシップについて学ぶ授業なのだ。あらゆる分野の学生が履修するためにこぞって集まるゆえんが分かったような気がした。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37339
日本語による同様の記事もある。再び、引用しよう。

ハイフェッツ教授は授業初日に教室にやって来て、一通り事務手続きを話した後、黙りこくってしまいます。以降の授業でも、少し話したかと思うと教室脇にある椅子に座ってぼーっとしています。
授業の大半はある意味、授業放棄とも言える状態のため、学生は混乱に陥ります。
「私たちは何を学んでいるんだ」「高い授業料を払ってこれか」「学生の意見なんて聞きたくない。私は教授の話を聞きたいんだ」
(略)
教授はたまに重い口を開いて話し出したりしますが、怒った学生たちは「こんな授業でいいと思っているのか。私たちはこの数週間何も学んでいない。教授のやり方は間違っている!」と教授をも攻撃し始めます。
先生が講義しない授業なんて、いったい何の役に立つのか? と疑問を抱かれると思います。でも、これは多様な意見を持つ人々が集まる、いわゆる現実の世界を教室に再現したものなのです。

この授業の担当者はRonald Heifetz博士である。こちらでシラバスが公開されている。日本でもNHKの白熱教室をみて知った方も多いだろう。
https://www.hks.harvard.edu/about/faculty-staff-directory/ronald-heifetz

授業によく似ていると思われるのが、T-groupやSensitivty Trainingである。そして、なるほど、Heifetzは実は精神科医でもある。こうした方法をよく知っているはずだ。もちろん、それらは過去にとある分野で悪用された経緯によって否定的に捉えられることもある。しかし、大学の安全な教室内で行われれば問題はないだろう。シラバスを読む限り、Heifetzだけではなく複数のTAがついているようである。
「大学での創造的学び」も複数のスタッフが関与することでなるべく混乱が生じないような配慮を行っていた。学生の喜怒哀楽を受けとめるのも仕事の一つである。そして、ちょうど別のところに書いたばかりなのだが、やはりリーダーシップが鍵概念の一つである。私は教室でそれを明示することはあまりなかったのだが、まさに「それぞれの人がリーダーシップを発揮」するようになる。Heifetzとの違いはものつくりを「現実の世界を再現する」〈方法〉として用いるところだが、おそらく目標はかなりの部分で共通しているのである。なお、MBAにおけるケース・メソッドも同じような方法(「現実の世界を再現する」ためのケースであり、まずは院生同士で議論する)、目標を有しているともいえるだろう。

http://sakuranomori.hatenablog.com/entry/20160504/p1

ただ、以前にも書いたように、この授業はすでに開講されていない。とても残念なことである。Heifetzの著作にもあるように、この方法についての学術的背景は当然あるわけだが、その理論そのものを教室で知識として伝達するわけではないので、伝統的な講義形式のみを正統とみなす教職員から理解を得るのが難しいのである。

年齢とコーホート

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研究室の段ボールを片付けていたら、こんなもの(コピー)が出てきた。

一橋大学前期自治会講義教官評価委員会、1995、『講義教官評価93総集編:一橋大学における学生主催の講義評価の試み』(頒価350円)

いまはそうは言わない「教官」という言葉が時代を感じさせる*1
はしがきにはこう書いてある。

大学の講義は一般的には退屈なものとされる。少なくとも一橋大学前期課程において、この通説を否定できる事例はそう多くはないようだ。これは「大学のレジャーランド化」と指摘される現状と密接にかかわっている。大学は教育機関としての役割を失い、学問を学生に提供せず、受験競争に終えて再び競争社会へ出るまでの息抜きだけを提供している。こう指摘されもする現状を改善しなければならない。これは、現在の大学受験制度や教育体制、ひいては社会の大学偏重といったことまでを含む課題である。そのなかで大学の基礎である講義、特に大学の入口である前期課程における講義の活性化に重要性を見いだして行われたのが本書の「講義教官」である。これは、一橋大学前期自治会講義教官評価委員会が1993年秋から翌年の1月までの間に行ったアンケート調査と、それに対する教官からの返答である。学生主催の講義評価であり、各教官の評価を公表するという点、そして教官からの返答を併せて編集するという点では、おそらく日本で初めての試みではないかと思われる。これは、学長選挙においても学生も一人一票(候補者除斥権)をもっている本学の自由な風土があるからこそ、実現できたものであろう。
大学生には様々な非難の言葉が投げかけられてきた。いわく、「学問の府をレジャーランドにした不届き者」「税金の無駄遣い」「モラトリアム」。学生は社会にたいして負っている責任を自覚すべきであり、その責任逃れをすることはできない。だが今まで、レジャーランド化の原因を社会制度や教育体制などに求めず、学生個人に追求するむきが強かったのではないか。それゆえ、「最近の大学生は勉強しない」と結論づけて問題の解決を先延ばしにしてきたように思える。ただし、これは大学教員への批判というのではない。講義教官評価は、「最近の大学生は勉強しない」といわれる現状をどう解決するのかという議論に学生の視点を加え、広範な議論の発端となることを目的としている。決して、「大学教員(原文ママ)を弾劾」するものや、学生の果すべき責任を問わず一方的に教官を批判するもの、学生を消費者とみなしそのニーズに応える目的のものなどとは、同一視されてはならない。
(略)
学生による講義評価が教授会などの圧力で実行不可能な大学があるなかで、本学の教職員は上記の様に易く(原文ママ)学生に理解を示し協力を惜しみません。このような素晴らしい慣習を築き上げ、維持してきた緒先輩方に敬意を表します。
平成7年 編者

なにやら偉いひとが書いたような文章である。最近では「レジャーランド」論は聞かなくなったものの(そもそも、ほんとうのレジャーランドに行かなくなっているかな、浦安のところ一人勝ちで)、「勉強しない」論はまだよく言われるところであって、20年以上変わっていないこともあるのだ。また、講義を評価するのか、教官を評価するのかが曖昧なことも、実は現在でも混乱していることもあるのかもしれない。なお、類書の、最近では類似サイトの学生による授業評価とは異なって、回答者数が各講義につき数十名と多く、また、教官からのフィードバックが掲載されている。
 興味深いことの一つが、アンケートの設問が現代のそれとよく似ていることである。当時の学生が作成したにもかかわらずである。実は教官が作成していたのではないかという疑念もあるかもしれないが、編者の氏名を見る限り、私にはそのようには思えない。まず、以下の設問A「この講義および担当教官について」、NO(マイナス2点)からYES(プラス2点)までの5件の回答を求めている。声は明瞭である、黒板の使用は効果的である、話のスピードは適当である、講義は要点を抑えていてわかりやすい、講義は一貫性を持っている、年間講義計画は詳細である、学生の理解力を考慮している、質問への対応が丁寧である、講義が教材にとどまらず発展性に富む、現実と関連性にある話もする、学生の知的好奇心を刺激する、熱意が感じられる、この講義を全体的に評価すると?。また、設問B「あなたはこの講義に対して」、それぞれの評語に応じて5件での回答を求める。どのくらい出席していますか、毎回予習はしますか、難易度はどれくらいに感じますか、関連図書を読みましたか。そして、設問C「この講義を受講する理由(2つだけ)」、を選ぶように求める。講義要綱を読んで興味を覚えた、単位取得が楽である、いわゆる「保険」である、先生にひかれた、後期への必修科目である、時間割の都合上、その他。

学生による授業評価は今でも大学教員によって否定的に受け取られることがある。結局は学生を受動的な消費者にする、人格批判や勤務評価に転用されるなどの理由によってである。その否定は確かにわかる一方で、これらの設問を見る限り、声、黒板、スピード、要点等についての学生が感じる問題意識も無視はできないのだろうと思い直すのである。
 もう一つは、自由記述についてである。良い点、悪い点、要望を書くように求めている。各講義について大量の自由記述が8ポイントほどの大きさで列記されている。ここでは、悪い点の一部を抜き書きしてみよう。括弧内の数字は同一内容の記述件数であると推測される。



人文科学系のある講義
少し聞き取りづらい、訳のわからない人には「そうじゃなくてー」の意味が分からない、出席しない人に対して甘い、くどい、ねちねちしている、冷たい、小馬鹿にする、バカに正解を要求する、授業に参加する人数が少ない(分かる気もするが…)、名簿順にあてるので学生の緊張感や熱意が弛緩してしまう(むろん大多数の学生にとっては、「良い点」になるでしょうが)

社会科学系のある講義
声が小さい(2)、ノートがとりにくい(3)、講義が単調で眠い(5)、話が非常にわかりずらい、余談を入れるタイミングの悪さがそれに拍車をかけている、話に抑揚がないので重要なことがわかりずらい、要点がわかりにくい、項目だけを羅列している気がする、時々意味不明、論理の進め方がわかりにくい時がある、先生の頭ではキチッと整理されているのであろうが実際にノートを書くときには難しい一面がある、板書をしない(4)、黒板の使い方が不十分、非効率(6)、十分に理解出来ない概念をも時間をかけて説明してくれない、スピードが速すぎ、ノート取れない(9)、ポイントをさっさと言い流す、**出身の教官であるため**という講義名から推測できる内容よりかなりマニアックだ(二宮注:一部伏せ字にした、以下同様)、カバーする範囲が広いため1つのことに対して突っ込んだ話があまり聞けない(2)、自己満足な講義に陥っている、**にもかかわらずかなり突っ込む部分と全く触れない部分があってムラが出る

社会科学系のある講義
偉そうな話し方(4)、何を求めているのか分からない(2)、板書が少ない、やや難しい、テーマが身近であってほしい、テキストが時代遅れ、レポートの返答が簡単、評価が厳しい、偏見を持っている(2)、嘘をつく、性格が悪い、主観的、頑固、怖い、予習が大変、時間の延長

一般教育科目のある講義
だじゃれが下らなすぎると白ける(原文ママ)、眠くなる

語学のある科目
ききづらい、話すスピードが速い、早口でわかりずらい(4)、発音が悪い、要点を得ない、進度がとにかく速すぎる(2)、むずかしい、(たった1年間しか**をやっていないのに)学生の力を過信している、論文の内容がつまらない(おもしろくもないのに非常に文法的には難解。最低。語学の授業として最低だ。かえって学習意欲をそいでしまう)、無理に**を読ませたこと、テキスト教材が不適当、難しすぎる(4)、テキストの内容が自分(先生)の能力を超えていたらしく途中でテキスト変えた、突然テキストを変えた、テストが難しい、相対評価で落とす、テストで点が悪いとDがつく、夏学期の試験のとき見回りをしないからカンニングをしていた人が多かった(真面目に勉強をしていた人がバカをみる)、辞書を乱雑に扱う点、先生が予習をあまりしていないのか先生自身教材内容をわかっていないらしい、先生が一人で文法の分析をする場になってしまっている、ダラダラ続く論文をダラダラ読むので学習意欲がわかない



あまりにも言いたい放題である(笑。ノートを取ることへの言及については今とは違っているだろうか。ところで、はしがきでは学生は消費者ではないと主張されていた一方で、サービスを受けるという観点からのコメントもあるようだ。私が関心を持った理由は、現代でも同じような主張をよく見かけるからである。そして、特に、それがなぜかボーダーフリー大学否定論の根拠になることを不思議に感じているからである。学生によるこれと同様の書き込みや、ネットメディアによるそれへの言及に依拠してボーダーフリー大学の教育が「だからダメなんだ」と言われることがある。しかし、例示した、おそらくは選抜性の高いであろう大学におけるかつての学生によるコメントを見れば、そうした主張はコーホートによる違いと年齢による違い(と選抜性によって生じる相違の何か)を混同していると指摘できるかもしれない。少なくとも20年、30年単位の時間的間隔の中では、ある時期(コーホート)のあるカテゴリーに入る学生が何らかの特徴を持っているというのではなくて、そもそも学生とはその年齢ゆえに何らかの特徴を持っているといえないだろうか。このように視点を変えてみると、何かできることが増える印象を持っているのである。

*1:本文中で外部との政治団体とのつながりはないことが強調されている。このことも時代を感じさせる。なお、確かに団体としてはそうだろう。ただし、個人的につながりを持っていたひとは僅かであれいたかもしれない。

群馬大学に着任しました

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2月1日付で群馬大学に着任しました。所属は学術研究院で、大学教育・学生支援機構教育改革推進室の主担当です。一橋大学岡山大学日本工業大学茨城大学を経て5校目の勤務となります。これまでの高等教育研究、勤務先における各種の企画や実践をふまえつつ、幅広く柔軟に仕事を進めていく所存です。よろしくお願いいたします。

学校教員の仕事について丁寧に考える

お送りいただきました。ありがとうございます。依然として教師論は(も)不勉強なので、しっかり読む所存でございます。


目次は以下のとおりである。

プロローグ 90年を隔てた2つの出来事―大川小被災と小野さつき訓導殉職
第Ⅰ部 日本の教師たちの今日的な受難
第1章 ある新採教師の被災事件が教えること
第2章 教師1年目は特別に難しくなっている
 第3章 教師たちが置かれた圧迫状況とその背景要因
 第4章 教育改革・教育政策が進める「行政犯罪」
第Ⅱ部 教師たちの仕事柄の歴史的・文化的考察
 第5章 学校教師という存在の歴史的・社会的な特徴
 第6章 教師の教える仕事の意外なほどの難しさ
 第7章 教員文化・学校文化という存在とその働き
 第8章 「文化の共有関係」はどう衰退したか
第Ⅲ部 日本の教師たちのアイデンティティと希望
 第9章 教師には教職アイデンティティが必要である―国際比較調査から
 第10章 日本の教師たちが持つ「教育実践」志向
 第11章 教師の教育活動が教育実践として生きて作用するために
 第12章 日本の教員文化の再構成をめぐる課題―苦難から希望へ

 筆者がまえがきで「それまではむしろ、教師層が持つ特有の体質のようなものにやや批判的な文章も書いていたのだが、90年代半ば以降は(その特有の体質への批判はあっても)いま置かれている状況のひどさのほうが、もっと重要だと考えるようになった」(1頁)と書くように、教員文化研究はもちろん教師のありように対して是か非かを突きつけるという単純な二項対立の評価を持ち込むなどというのではなく、特有の体質ゆえに生じることの結果から、その複雑に絡み合う要素を解きほぐしていく仕事をしてきた。その体質の中には、たとえば1986年の東京・中野区の中学校における事件にみられるように、批判的に論じられて然るべき要素もあったわけではあるが、しかし、90年代半ば以降の社会の多様な変化はもともとの体質とあいまって学校教員という職業を格段に難しくさせたということなのであろう。学校教員に対して、その表層的な一部分だけを取り出して否定的な印象を持っている方々にぜひ読んでほしいのである。
 学校教員が圧迫を感じる背景として、次の3点が挙げられている(59-61頁)。第1に、いわゆる対人援助職と同じように、相手の反応を気遣う必要である。しかも、それは一人だけの反応を見つつ、同時に、教室全体の反応を見ていなければならない。これは筆者ではなく私の印象であるが、勤務時間が終わったから相手のことを考えなくてもよいとはならず気が休まる時間がない。このことは他の職業とは大きく異なるだろう。第2に、新自由主義価値観を持ちつつ、さらに、ごじしんが厳しい生活を強いられているかもしれない、児童、生徒の親によるクレームである。かつてのように先生は立派なのだからすべてお任せしたい、何か要望を伝えるなんてとんでもないという親は減っているのだろう*1。学校のサービス産業化による困難である。第3に、教員を多忙にさせたり、その専門職性を貶めたりする教育政策である。これは、おそらく第2の点と密接に関連していることであって、やや粗雑に言うことをお許し頂ければ、教育行政対教員・家庭と対立枠組みが、教育行政・家庭対教員に変化したということだろうか。確かに、厳しい困難である。
 そして、歴史的・社会的な特徴を考えるということは重要である。このブログでも繰り返し取り上げていることだが、メディアで取り上げられる学校教員の不祥事については割り引いて理解しなければならない。民間企業の従業員が不祥事を起こしてもメディアはあまり取り上げず、他方、公務員、学校教員については報道される傾向があるという固有のバイアスが存在する。そのうえで、そもそも学校教員は数が多いのである。それは、近代国家がその成立のために学校を必要とするからであって、現代では初等中等の本務者だけで100万弱の数である。それに幼稚園、大学・大学院、各種学校専修学校(それらとは一部の重なることもある大学校、塾・予備校、おけいこ…)を加えれば、そして、非常勤、嘱託、派遣等の不安定な雇用による層を加えれば膨大な人数である。この人数の多さが処遇の低さにつながるのである(94頁)。もちろん、不祥事はあってはならないわけではあるが、長時間労働、低賃金(同世代の他業種に比して)、さらには、近年では非正規雇用という制約の中で教員は難しい仕事に従事しているのである。
 学校教員という職業について分析的に捉えるために必読の書である。

*1:テレビドラマ「あばれはっちゃく」の父ちゃんを思い出そう。子どもが問題を起こしたら、どうするか。