群大ビブリオバトル2019菖蒲月

sakuranomori.hatenablog.com
昨年度と同様、講義でビブリオバトルを行いました。若者に関連する書籍、ただし若者の定義はそれぞれに任せるという条件で実施した結果、全14グループのチャンプ本は以下のとおりになりました。

チーム桐壺

チーム帚木

チーム空蝉

チーム夕顔

「承認欲求」の呪縛 (新潮新書)

「承認欲求」の呪縛 (新潮新書)

チーム若紫

近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」 (光文社新書)

近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」 (光文社新書)

チーム末摘花

チーム紅葉賀

チーム花宴

チーム葵

少女 (双葉文庫)

少女 (双葉文庫)

チーム賢木

神田川デイズ (角川文庫)

神田川デイズ (角川文庫)

チーム花散里

チーム須磨

ソロモンの犬 (文春文庫)

ソロモンの犬 (文春文庫)

チーム明石

チーム澪標

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

2年連続で絶望本がチャンプになっています。強いですね!
ところで、担当教員はこうした1回の授業によっていわゆる「コミュニケーション能力」が高まるとは考えておりません。本が好きになるとも考えていません。それらはもちろん、授業のねらいでもありません。他方、この1回限りの授業でなぜだかできるようになったことがあるはずです。それは何でしょうか?
そして、源氏物語を参考にしてチーム名を作っていたのに、「恋愛しない若者たち」が選ばれるという偶然の皮肉に苦笑しました。

高等教育論セミナー2019夏「戦後日本の高等教育政策①1945~1979」

大学・短期大学にお勤めの事務職員/教員、高等教育論に関心を持つ大学院生を対象としたセミナーを開催します。仕事として高等教育に関わることになった/これからそうなるものの、これまで高等教育論、大学史、教育社会学の講義を聴いた経験があまりない方を対象としています。予備知識は不要です(担当講師がかつて非常勤講師として勤務していた大学で開講していた教養教育科目「高等教育の歴史的展開」と同等の水準・内容です)。
セミナーの目的は、主に事務職員の皆さまの高等教育に関する知識を高めることにあります。なお、本セミナーは担当講師の所属機関・部局による主催ではありません。担当講師による自発的な社会貢献の企画です。そのため、聴講したことを証明する文書の発行などはできません。

担当講師:二宮 祐
群馬大学 学術研究院(主担当 大学教育・学生支援機構教育改革推進室)准教授
業績や経歴については https://researchmap.jp/skrnmr/ をご覧ください

セミナーの内容:1945年前後から1979年前後までの日本の高等教育政策について、その概要、背景、論点を紹介します。

日程:2019年8月4日(日)
14:00~15:40 講義
15:40~15:50 休憩
15:50~16:30 質疑応答・ディスカッション

場所:東京工業大学キャンパス・イノベーションセンター(東京都港区)
5階リエゾン・コーナー
http://www.cictokyo.jp/index.html

参加資格:全国の大学・短期大学にお勤めの事務職員/教員、高等教育論に関心を持つ大学院生

定員:35名(先着順)

参加費用:500円(配布資料コピー代として、当日のお支払い)

申し込み方法:以下のフォームに必要事項をご記入のうえ、送信してください。担当講師の大学メールアドレス(ac.jp)から、参加のご案内が届きましたら受付完了です。定員を超過した場合には、参加をお断りするご案内をお送りする場合があります。
docs.google.com

「わがまま」をときほぐす作業

みんなの「わがまま」入門

みんなの「わがまま」入門

著者、出版社よりお送り頂きました。ありがとうございます。


http://sayusha.com/catalog/books/p9784865282306c0036
「はじめに」の全文は、出版社のウェブサイトから読めるようです(2019年4月22日時点)。


中学、高校生向けの講演が契機となって、まとめられた書籍とのことである。そのため、「はじめに」の後の構成は、1時間目「私たちが『わがまま』言えない理由」、2時間目「『わがまま』は社会の処方箋」、3時間目「『わがまま』準備運動」、4時間目「さて、『わがまま』言ってみよう!」、5時間目「『わがまま』を『おせっかい』につなげよう」となっている。なお、ここで扱われている「運動」というのは、「うん‐どう【運動】[名](スル)2からだを鍛え、健康を保つために身体を動かすこと。スポーツ。『肥満防止のために運動する』『運動競技』」(出所:デジタル大辞泉)という中高生によく知られた意味ではなく、「3 ある目的を達するために活動したり、各方面に働きかけること。『選挙運動』『労働運動』『委員になるため運動する』」(出所:同上)である。あまり馴染みのない言葉かもしれない。辞書の定義ではなんということもない言葉であるけれども、上記の「はじめに」やそれに続く1時間目では「運動」に対する現代的な、否定的意味づけの内容が紹介されている。そこで1時間目では、否定する必要などあるわけもない、運動に至る初発の問題意識や、その問題意識の展開を阻もうとする私たちの意識についての説明が行われている。

学校生活のなかで「あの子ずるいな」「あいつは自己中だな」と思うことはありませんか。「毎回授業に遅刻してきて、授業の進行が遅くなる」とか、「私はまじめに宿題をしているのに、なぜ私の宿題を写しているだけの人と、同じ点数なんだろう」とか…。
また、そういう他人に対する不公平感と同様に、自分を取り巻く環境に対する不満や違和感もあるのではないかと思います。「授業の時間が長すぎる」とか、「存在する理由がわからない校則がやたら多い」とか。
でも、学校生活のなかで不公平感や違和感があっても、おそらくあなたはあまり大々的には言わず、がまんをすることの方が多いのではないでしょうか。
もしかしたら、自分の違和感を大々的に表現したり、権利を主張する人のことを、「わがままだな」「空気読めよ」と思うこともあるし、素直に意見や不満を口に出す、そういう人もまたずるくて自己中だと感じてしまうかもしれませんね。少なくとも、私はそうでした。
だれかを「ずるい」と思うことも、不満や違和感を公にする人に対して「わがまま」と感じることも、よくあることだと思います。
でも、不満を表に出す人に対して「あいつはわがままだ!」と片付けて、自分自身はがまんしてしまうことで、わたしたちの生活する場所が今よりもっと窮屈で、苦しい場所になる可能性もある。がまんすることで、一時的に他人との衝突やモヤモヤをやり過ごせたかのように感じるかもしれませんが、じつは、それは自分の将来を縛っている行為でもあるのです。声は上げなかったせいで、未来の自分が好きなように振る舞えないのは、多分だれしも嫌ですよね。
どうしたら、がまんせずに不満や違和感を口にすることで、ムカつく教室(やクソみたいな職場)をちょっとはマシなものにできるのでしょうか。このことを考えるために、もう少し「わがまま」という行為について考えてみましょう。
17-18頁(1時間目)

私個人的には、3時間目くらいまではどうにか実践できそうだけれども、4時間目以降はなかなか難しい。学生と社会運動をテーマとして議論をする際にも(議論という言葉を嫌う分野の方は「意見交換」と読みかえて頂きたい、ほんとうは同じ意味ではないけれども)、この3時間目と4時間目の間で行ったり来たりすることが多い。138頁ではSNSの話題も取り上げられていて、まさに学生が気にする論点である。また、学生との会話のなかでは「まだ子どもなので、運動なんて縁がない」というものもある。かつて(さて、いつの時代でしょうか?)は中高生も何らかの運動へ積極的に、あるいは、親などの大人に連れられて消極的に(?)参加していた時代もあるけれども、おそらく現代はそうでもない。しかし、子どもであるという学生はいつ大人になるのか、そして、運動に縁が生じることになるのだろうか。さらに、筆者も言及しているように運動という概念をもう少し揺さぶってみれば、実は運動を行っていることもあるのかもしれない。
本書のおもしろい点の一つは、社会学の入門書としても読めるところである。社会学のレンズを通してある現象をみると、別の像が浮かび上がるという事例が豊富に紹介されている。ただ、私(ブログ主)の指導教員がかつてよく言っていたように「社会学は稲光(いなびかり)のような性格を持っていることがあるので、その瞬間はとても鮮明にわかった気になるんだけど、少し時間を置くとやっぱり見えなくなる/わからなくなる」こともあるので、紹介された事例の前後でそっと言及されている書籍や論文を読んでみるのもよいだろう。

「植民地大学」

アメリカ占領期の沖縄高等教育――文化冷戦時代の民主教育の光と影

アメリカ占領期の沖縄高等教育――文化冷戦時代の民主教育の光と影

沖縄における戦後高等教育史、特に琉球大学の歴史について、私は知らないことが多くとても勉強になった。

戦後初期には、ジェームス・ワトキンスやウィラード・ハンナのような教養が高く、教育や文化の重要性を認識していた民事活動担当の将校達が、沖縄の教育復興に貢献したと言える。ミルトン・ミルダーをはじめとするミシガン・ミッションに携わった教授達の多くもまた、地域社会に奉仕するというランドグラント大学(二宮注:米国で1862年に制定されたモリル・ランドグラント法に基づいて作られた、農学や機械工学といった地域の発展のために「役に立つ」学問分野を重視した大学)の理念に則り、沖縄社会の復興と発展を牽引した多くの有能な若者達を育成した。琉球大学ミシガン州立大学の関係は、両校の学術交流が現在まで持続していることに鑑みれば、ミシガン州立大学をUSCAR(二宮注:アメリカ民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands))の傀儡と断じた一部の批判的な学生達との見解とは、明らかに異なるものであったと言えよう。
ただし、陸軍省の教育政策は、元来、戦略的に重要な拠点である沖縄の恒久的占領を目的とした文化政策の一環であった。それゆえ、沖縄の返還によって、その目標を達成できなかったというのが、沖縄占領期のアメリカによる高等教育政策に対する正しい評価と言える。そもそも、USCARの広報・文化政策は、占領統治の正当性を、沖縄住民に説得するどころか、反対に沖縄教職員会をはじめとする多くの市民団体の反発を招き、本土復帰に向けた社会運動の紐帯を固める結果となったのである。USCARは、米琉文化センターの設立や広報雑誌の無償配布といった活動を通じて、沖縄住民へのアメリカ文化の普及を試みたものの、本土と沖縄の歴史的、文化的紐帯を弱めることはできなかった。なぜなら、USCARの広報・文化政策には、占領する側とされる側の権力関係が、常に反映されたからである。とりわけ、教育分野は、政治経済的に「後進的な沖縄」の「アメリカ的近代化」という家父長的な特徴が、際立つ領域であった。ミシガン州立大学琉球大学の関係性を、「養子縁組」と形容する陸軍省が始めたミシガン・ミッションには、当初からアメリカの優位性が、明示されていたと言える。
さらに、占領期のアメリカ高等教育政策には、米ソ文化冷戦の要素も強く反映され、沖縄県内での共産主義勢力の封じ込めと不可分の関係性があった。琉球大学支援事業には、当初から反共親米エリート層の育成という冷戦期特有の政治的意図が明確にあり、冷戦コンセンサスの下、ミシガン州立大学ロックフェラー財団のような、アメリカ国内の高等教育機関や民間財団からの積極的な援助が得られたのである。琉球大学では、ミシガン州立大学教授団の助言の下、高等教育の拡充が、着実に進んでいった。
琉大の学生と教員を対象としたアメリカ留学生もまた、高等教育を政治的に利用した典型例であった。沖縄返還の時点で、琉球大学に勤めていた五六四名の専任講師の内、一割強の六一名は、アメリカの学位を有する教員であった。USCARは、留学生のアメリカ体験記さえも、文化冷戦の道具として利用した。
128-129頁

1953年、1956年の「琉大事件」はよく知られていることである。本書はその事件の背景にある米国による統治政策の特徴を、教育政策と関連させて明らかにした点で意義深い。反共思想に基づいて「学問の自治」が埋め込まれていない大学が存在していたということ、(高等)教育政策は統治のための政策という側面を免れえないということがわかるのである。
ただ、議論の対象のほとんどは琉球大学に向けられていて、沖縄全体の高等教育史がまとめられているというわけではない。一般に大学論が語られるとき、(銘柄)国立大学、四年制大学だけが念頭に置かれてしまうことがある。しかし、高等教育論・大学教育論で指摘されることがあるように、「私学」の存在を抜きにして大学論は語られ得ない。その点で、占領下の沖縄女子短期大学琉球国際短期大学などの設立と、米国による統治政策についても知りたいと思ってしまうのである。

当事者にとっての転職の意味

臨床心理士であり、かつ、一般の職業を経験しCDA資格(キャリア・デベロップメント・アドバイザー)を保有なさっている筆者の博士論文が書籍化されたものである。筆者の問題意識の一つは、転職者は珍しいわけでもなくむしろ多数を占めるはずであるのに、好ましくないとういう価値観があったためかあまり研究されてこなかったというところにある。既存の研究では、「職業選択の未熟さ」「バーンアウト」「職業と家庭の両立の困難さ」(2頁)といった当事者の「問題」に焦点が絞られている傾向があったという。そこで、経営学や心理学、そしてそれらを応用するキャリア理論の検討をふまえたうえで、何度も転職を繰り返している「頻回転職者」2名を対象として実施したインタビュー記録を考察の対象にする。
このわずか2名をインタビュー対象とするという研究方法が、おそらく本書の重要な特徴である。

ところで、ここで予め触れておくと、本書のインタビューイー(インタビュー参加者)はA氏とB氏という頻回転職者2名のみである。第2章でA氏のインタビュー、第3章でB氏のインタビュー、第4章でA氏とB氏の対話的インタビューを取り上げている。
となると、直ちに、「たった2名のインタビューに一般性はあるのか?」「偏った特殊な事例だから、他の事例にあてはまらないのではないか?」という疑問が頭に浮かぶ読者もいるだろう。もちろん、筆者も本書の検討だけで完璧だと考えているわけでは決してない。ただし、質的研究としては一定の成果を示すことができると考えている。なぜなら、質的研究には「むしろ個別や具体を深く追求して深い意味を見いだすことで、それが深ければ深いほど、一般性や普遍性のある知見が得られると考える」(大谷、2016)という認識論があるからである。これは、より多くの”数”の賛同を重視する多数決の原理に子どもの頃から馴染んでいる私たちにとっては、すぐには受け入れ難い発想だといえるだろう。
(略)
本書の探求が一般性・普遍性を実現しているかどうかは、次のような読者の実感によって評価される。すなわち、読者が研究者であれば「そういえば、あの転職者の事例にも似たような要素がある」、また、読者がキャリアカウンセラーであれば「あのときの転職者(クライエント)の発言は、こういうふうに捉えてみれば理解できる」、そして、読者自身が転職者であれば、「ああ、自分も同じだ」などと思ってもらえるかどうか、そこに本書の質的研究としての存在意義はかかっている。
6-7頁

おそらく筆者の臨床心理士の経験がこの研究方法に反映されているのだろう。そのため、私は対象者の少なさそのものは特に問題だとは思わなかった。その一方で、対象者の語りを短く区切ったうえで、その一つ一つに理論的な解釈を行っていくーたとえば、それぞれの短く区切られた語りに対して、様々なキャリア理論を引用して説明するー叙述については、ややひっかかりを覚えてしまった。それぞれのキャリア理論に何か一つのまとまり(提唱された時期、国、対象、関心、背景となる経営学や心理学など、その背景理論が明らかにしようとしたいこと)があればよいのだけれども、どうもそのようには見えない。そこで、都合のよい枠組みをその都度採用しているよう捉えられてしまうかもしれないのである。
とはいえ、国立大学教育学部を中退後、酪農業、営業、コンピュータエンジニア等を経験して、現在は小学校の教諭であるA氏、国立大学を卒業後に中学校の教諭になってから13回の転職を経験したB氏に対する、詳細なインタビューから得られた転職に対する意味づけと、その意味づけを理論的に理解するための解釈枠組みはとても勉強になった。まさに、私が現在行っている社会人インタビューで、「そういえば、あの転職者の事例にも似たような要素がある」と実感するのである。