新書(だけ)で読む能力主義[後編]

 研究室の書架にある新書縛り能力主義論、後編である[後編]。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

「選抜」についてですが、このテーマに関して最初に理解しておくべきは、先述したように、学力の測定・評価には必ず“あいまいさ”と“恣意性”がつきものだということです(広田2011参照)。つまり、「能力」は本来、正確に測ることなどできない上に、何をもって能力があるとするかは、かなり恣意的だということです。
(略)
選抜(およびそれに伴う序列化)は、必ずしもその人の「能力」を十分に反映したものではないということを、まずはしっかりと理解しておく必要があります。というより、本来能力とは多様なものであるにもかかわらず、これを一元的な評価軸において序列化してしまうのは、産業主義の時代であればまだしも、ポスト産業社会の現代においてはきわめて無理のある話なのです。
とはいえ、選抜というものは、少子化に伴って少しずつ減少してはいるものの、どうしてもある程度は存在し続けるものです。
143-144頁

「能力」は本来多元的なものであるものの、産業化に対応して一元的であると把握されてきたこと、そして、その過程において、一部の「能力」だけが恣意的に切り取られて高く評価されてきたことについて批判的な考察が示されている。ただし、著者は従来の教育関係者とは異なって、財界、企業が求める「能力」を全否定しているわけではない。現代の企業においては「訓練されやすい」という力量(?)よりも「学び続ける力」が必要であり、それは確かに階級・階層による格差を反映しやすいという重大な問題があるとはいえ、公教育で育てる力量の一つとして矛盾するものではない、という認識を示している。


暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)

本書の基本的スタンスは、

いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければらない」という議論それ自体である。

というものである。ではそうした見方が妥当だとすると、なぜこのような渇望が生み出されるのだろうか。その答えを導き出すために私が用意しているロジックは次の5つの命題からなる。
命題1 いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない
命題2 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される
命題3 メリトクラシーは反省的に常に問い直され、批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシー再帰性
命題4 後期近代ではメリトクラシー再帰性はこれまで以上に高まる
命題5 現代社会における「新しい能力」をめぐる議論は、メリトクラシー再帰性の高まりを示す現象である
47-48頁

著者は社会学における後期近代論を参照しつつ、一部には葛藤理論も視野に入れながら、現代の日本や、日本だけではない「新しい能力」論の流行について考察している。ギデンズ、ベックを読んだことがあればお馴染みの議論である(私の講義を履修した学生は、よく聞かされましたよね(笑。「ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、それよりも昔のご先祖様の時代からそうだったのだから、そうなんだよ」ではもはや納得できない時代だ)。これほどまで社会学理論を援用して「新しい能力」そのものというよりは、それが流行する文脈について迫った類書はないだろう。
私が知りたかったことの一つは、かつての教育関係者の関心との接続についてである。財界、企業由来の能力主義への否定という論点については、後期近代論という大きな枠組みを採用することによってとりあえず射程内に入っていると言えそうである。一元的能力主義観に捕捉されてしまうことのない「『真の学力(ほんとうの知識・教養)』というものがあるはずだ、公教育はそれを価値とするべきだ」といった主張についても、再帰的近代のテーマに合いそうである。他方、伝統的な従来の能力平等・差別忌避論に対して、何を言ったことになるのか評価が難しい。能力平等・差別忌避論は著者によって反論の対象の一つにされている(葛藤理論的)メリトクラシー幻想論と似ているようで異なる主張である。「能力の社会的構成」は社会学者によってはわかりやすい概念であるものの、教育関係者はどのように受けとめるだろうか。
また、かつての教育関係者による一元的能力主義批判に対しては、本書が検討の対象にしてきたような「新しい能力」の出現によって、あるいは、それに関連する「脱・競争(の教育)」とでも言うべき競争的秩序の部分的溶解によって、幸せな社会が到来したと言えるのかという問いを思いつく。コミュ力(コミュニケーション能力)の重視は、決して偏差値序列の秩序を救ったことにはならない、新たなディストピアの出現であるようにも見えるのである。

新書(だけ)で読む能力主義[前編]

 学者は「能力主義」についてどのようなことを語ってきたのか、研究室の書架にある新書縛りで確認してみよう。[前編]

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

この教育白書発表の翌六三年、高度経済成長下の教育政策の基調となった、経済審議会の答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出された。
そこでは、経済発展は国民生活向上のためにすすめられるのであり、それを担う人的能力の開発が政策の目的であるとされる。そして、「労働力としての人的能力といっても、その基調には生活向上への希求と人間尊重の精神が貫かれていなければならないし、また、われわれの考え方にはそれが貫かれているのである」という。
この言葉の限りでは異論のある人はいないだろう。たしかに以後、国民の物的生活は向上していく。しかしどのようにすすめられてかが問題である。答申には、「端的にいえば、教育においても、社会においても、能力主義を徹底するということである」、とまことに端的に記されていた。さらに具体的には「ハイタレント・マンパワー」の養成と尊重の必要を説き、一方、それぞれが自らの「能力・適性」に応じた教育を受け、それによって得た職業能力を評価・活用されるのがよいという教育観・職業意識に徹することを求めていた。
222-223頁

こうした政府の主張や、それに基づく政策に対して、教育学者、教育現場の一部は否定的であった。教育は経済の従属物ではない、ハイタレントではない一般の青年はどうなるのか、「能力・適性」に応じる教育は差別的である、などとして反対したのである。さて、その答申から約十数年、財界も喜ぶであろう職業高校を増設しよう、多様な「能力」は細かい分野毎に分かれた職業高校で養成されるはずだ、いや、しかしながら、企業は景気が良いので「能力」に固執することなく大勢の青年を採用したいし、そもそも企業内教育訓練があるから高校での職業教育はあまり要らなかった、採用選考の基準は特定の「狭い」「能力」というよりは高校の入試難易度や実績関係だ、それこそが「訓練可能性」の代替指標なのだ、職業高校は学習があまり得意ではない生徒の進学先なのだ、という主張―「一元的能力主義」観に基づく主張―が行われるようになる。生徒、親の多くが普通高校を望み、教育学者の一部も同様に一見すると財界の従属物ではないようなそれを期待する。とりいそぎ、まず、ここで確認したいことは、教育の分野で「能力主義」(単なる「能力」ではなく)が取り上げられたのは、政府・財界が主張する経済成長に付随する文脈であった。

現代社会と教育 (岩波新書)

現代社会と教育 (岩波新書)

産業の教育支配の潮流と呼応して想起された能力主義は、具体的には、社会と教育の場に競争の原理を貫徹させる主張であった。
(略)
ここから引き出される学校教育がどんな姿になるのか予想はつこう。繰り返されるテスト、一点を争う競争、能力別学級編成、そしてできる子には豊かな教育を、できない子は切り捨て、分に甘んじることを教え、そのような人間の見方に慣れさせるといった学校・学級経営のイメージが結ばれてこよう。
(略)
学校化社会は、人間能力の学校化をすすめる。学校が、価値あるものと評価する能力、それはテストで測られ、偏差値に還元される学力、それも算数・数学ないしは英語や感じの語彙数によって代表される。そして、それらの点数尺度を規準にして序列化され、能力別にクラス分けされるなかで、人間としての値うちもまた点数序列へと同一化されていく。
(略)
私たちは、このような知の序列化と知による支配と結びつく現代能力主義を厳しく批判しつつ、その上で、人間的能力の多様さと、人間にとっての知の根本的な意味をとらえ直し、人間が学ぶ存在であることの意味を深くとらえ直すことが必要である。
99-112頁

ここでは、財界主導の「能力主義」は教育現場にまで到達して、人間の価値までも入試偏差値一つで測られているということを否定している。荒れる学校、「登校拒否」、家庭内暴力といった当時の社会問題の背景には、たとえばここに挙げられているような競争的な秩序があるはずだという問題提起である。そのうえで、一元的能力主義からの脱却の必要性が主張されている。一元的―多元的、財界従属的―教育固有的・教育価値という二つの軸があったといえるだろうか。

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日本の能力主義管理の特徴を把握しようとするとき、まず前提として留意すべきは、私たちの国には一定範囲の仕事遂行予定した技能の社会的な定義とランク付けがなく、したがって仕事上必要な能力というのもひっきょう個別企業ごとの従業員に対する要請としてあらわれるほかないということである。
企業の要請は、職務割り当てと配置の変動に応じて柔軟で弾力的に働くことのできる潜在能力の開発と発揮を基本とする。この潜在能力の評価と、多面的な側面を持つ人間そのものの評価との距離はそう遠くない。経営者は能力主義の日本型を擁護し始めた頃、日経連は、能力は体力、適性、知識、経験、性格、意欲という六つの要素から成ると述べたものである(日経連1969)。また石田光男氏は、日本の職場で高く評価される人とは、たんに仕事が横よくできるだけの人ではなく、「職務に対する態度姿勢、接する人々への態度姿勢」のあり方を含む、良い「人柄」高い「人格」を備えた人のことであると観察し(石田199)、この有りようを身分制や階級性を脱した「日本の柔らかな人間観」にもとづくものと称揚している。
日経連と石田光男氏のいうところは、前節で私が日本的能力のいま一つ要素とした〈生活態度としての能力〉と言う指摘に近い。そして、この種の日本的性格に対しては私は石田光男氏とまったく評価を異にするけれども、その点はさておき、ここから必然的に導かれる日本型能力主義を次の特徴考えてみよう。それは、「横並びの集団主義」という通説とは逆に、日本企業の従業員は個別企業によって個人別に評価され処遇されるということである。要するに、職務割当てや配置も、評価も処遇も、「人によって違う」のだ。少なくとも日本の労務管理の理念では、フレキシビリティー・潜在能力・人格の重視に続く論理的結果帰結として評価は個人別になる。同じ職種の人は、一律に「横並び」で処遇される欧米ノンエリート労働者の世界とはここが最も対照的なのである。どちらがより「能力主義的」かはくりかえすまでもあるまい。
46-47頁

教育から離れて、社会政策・労使関係論における「能力主義」である。熊沢は「〈生活態度としての能力〉」が従業員に対して求められていたとする。この点に関しては、企業で働く現場に焦点を絞った議論であるため、教育に対する影響について(もちろん、熊沢が考える必要があるわけではない)その分野の専門家によってあまり考えられてはこなかったかもしれない。「仕事第一」「会社人間」として振る舞うための「〈生活態度としての能力〉」の要請は実のところ、先ほど紹介した言葉では「学校・学級経営のイメージ」の中にある児童・生徒像に向けられていたものとあまり変わらないかもしれない。たとえば、いわゆる教育労働運動が退潮して以降、指導者に対して対抗する、団結するといったエートスをそこに見出すことは難しい。指導者に対して柔軟に適応することは、むしろ日本の学校の得意とすることであろう。(政府・)財界・企業が明示的に求めたわけではないはずの「〈生活態度としての能力〉」が学校現場で醸成されていたといえるだろうか。なお、当時の日経連の「六要素」は荒削りながらも興味深い。体力、性格も能力なのであるから、釣りバカ日誌の浜崎伝助も評価されるだろう。
さて、かつての論者が教育における「能力主義」を否定的に理解した理由は、第一にまさしくその一部が財界・企業由来のであったこと、第二に学校現場での差別、競争を促進させるからであった。この二つは現代の「能力主義」批判論にも通ずるものがあるだろうか。もし、そうだとすると、特に、その第二の点を相対化した次の新書も確認しておきたい。

学力による序列化を「能力主義」と見なし、そのような教育を「差別=選別教育」として批判する。このような見方は、これほど先鋭的ではないにしても、私たちが日本の教育を問題視する際の、基底的な認識枠組みになっている。
(略)
たしかに私たちは、生徒を学力や成績によって差異的に処遇したり、成績によって振り分ける事態をさして、「能力主義的差別」あるいは「差別=選別教育」と見る。しかしながら、国際比較の視点から見ると、こうした「差別」のとらえ方は、かならずしもどの社会にも共通する認識のあり方ではない。
(略)
欧米の研究において「差別」として扱われる問題は、まさに辞書的な意味と照応した、階級や人種・民族、性別などのカテゴリカルな違いをもとに、差異的な処遇が行われている場合である。個人の能力差や業績の差異にもとづく差異的処遇までを含めて「差別」といっているわけではない。
(略)
固定的ではない、しかも「真の学力」とはいえない成績によって生徒を序列化する教育。しそれによって下位に置かれた生徒たちに差別感を与える教育。成績や能力による差異かを差別教育として批判する認識枠組みは、「能力主義」という言葉が出現する以前に、すでに形成され、教研集会の参加教師たちの間に広く共有されていた。つまり、能力の可変性への信仰と、テストで測られる学力を「真の学力」とはみない学力観とが広まり、差別感を問題視する差別教育の認識枠組みとむすびつくことによって、今日私たちが共有している能力主義的―差別教育観がつくられたのである。
155-180頁

児童・生徒が持っている「能力」は平等であって、誰でもがんばれば学校、ひいては、それを通じて職業社会で成功できると思い込むようになる、そんな「大衆教育社会」が成立した。つまり、競争が否定されてきた一方で、同時にかえって、平等なのだからこそ学歴獲得競争が盛んになるというパラドクスが指摘されているのである。
教育関係者が「能力主義」という言葉を前にしたとき―ヤングの小説は別として―、財界、企業由来の側面に関心が行き、あるいは、能力平等・差別忌避論の側面に着目することがある。これらのことがらは現代ではどのように言及されているだろうか。新書縛り能力主義論、後編に続く(ただし、現時点ではオチが何も見つかっていない。キーワードは、「真の学力(知識・教養)」、「脱・競争(の教育)」といったところか)。

群大ビブリオバトル2018菖蒲月

本日の講義でビブリオバトルを行いました。若者に関連する書籍、ただし若者の定義はそれぞれに任せるという条件で実施した結果、全14グループのチャンプ本は以下のとおりになりました(学生が文庫版を挙げている場合には、そのまま文庫版を提示しています)。


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Michael Jordan https://www.amazon.co.jp/Level-Michael-Pearson-English-Readers-ebook/dp/B0134377KA/

Snow Drop〈上〉―天国への手紙 https://www.amazon.co.jp/dp/4883816281/


四畳半神話大系』、『何者』は私が「若者本縛り」のビブリオバトルを始めてから継続してチャンプ本に選ばれています。『友だち幻想:人と人の〈つながり〉を考える』については、著者が数年前にお亡くなりになったことをご存知の方もいらっしゃると思います。著者の研ぎ澄まされた思考は今の大学生にも受け継がれているようです。
チャンプ本には選ばれなかったのですが、『君たちはどう生きるか』(岩波文庫版)、『いちご同盟』、『赤頭巾ちゃん気をつけて』が偶然にも揃ったグループがあって驚きました。これらは私が大学1年生だったとき、若者論を「濫読」するゼミで読みました。『君たちは・・・』はコミック版が出版されたので理解できるのですが、まさかの三田誠広庄司薫でした。懐かしいですし、今となっても取り上げられることに感慨深いです。そこには時代を問わず、若者に共通した何かがあるのでしょうか。
ところで、いわゆるケータイ小説が1冊選択されています。今の学生が小学校高学年、中学生くらいのときに読んだということになりますか。ケータイ小説ブームの「その後」についても気になるところです。


なお、参加した学生の皆さん(多くは1年生)は本学期中に書誌情報を丁寧に書けるようになりましょう。ビブリオバトルを経てからのそれを対象とする考察の際、書誌情報を書き込みましたよね。

東洋経済のネット記事「教育困難大学」について

教育困難大学」に来る学生の残念な志望動機
必然的に起きる「5月病」に苦慮する教員たち
https://toyokeizai.net/articles/-/219604

この記事の筆者は修士を取得なさっているようなので、「動機の語彙」という概念を聞いたことがあるかもしれない。「動機」は個人の思考や行動の理由をリニアに説明するものではなく、その思考や行動の理由として社会的に納得されると思われる、制限された語彙のリストから選択して語られるにすぎないというものである。当該個人もそのようなコミュニケーションの在り様の中に埋め込まれているのである。


「動機の語彙」とは、たとえば次のように説明される。
C.W.ミルズとアメリカ公共社会: 動機の語彙論と平和思想

原因、理由、目的、価値、規範、納得等のうち何によって動機を同定するかによって、学説史の基本構図が描かれる。ミルズの動機の語彙概念は、原因論の否定という争点において理解されるものである。ミルズは、行為の原因”Why?"を心理的、生理的メカニズムから考える動機論に対し、行為の状況がどのように社会的に説明・納得されか"How?"を問う動機論を対置した。動機の語彙とは、こうした状況の社会的伝達=動機の付与を行うパターン化されたことばのセットである。
(略)
ミルズの動機の語彙論は、人間内在的な客観的原因論を問う行為論的な見地に対し、人間外在的な語彙による主観的な動機の構成を問う相互行為論的な見地を提起するもの、というのが、一般的な解釈といえよう。
61-62頁

このような枠組みを通してみれば、「本当の志望動機」を問うことの意味はそれほど意味がないのかもしれない。特に、入学してすぐの1年生に対して「先生は怒らないから『本当の志望動機』を原稿用紙に書いてみてください」との指示を出したとしても、そこから出される回答は「先生」にとって了解可能であるものにすぎない。筆者は「食堂でカレーを食べてみて、この大学なら4年間食べるのにも困らないと思いました」という回答が見当違いであるという評価をしていようだけれども、その回答で用いられている表現は学生の持つ作文の力量ゆえのことである。たとえば、「高校ではいじめられていたり苦手な科目の勉強がつまらなかったりしたけれども、あの日のオープンキャンパスで感じた楽しい雰囲気が大学にあるのならば、好きな分野の勉強もできるうえに友だちも新しくできるだろうし、なんとかやっていけそうだと思った」(ただし、それを丁寧に言語化して表現することが難しかった、思いも付かなかったので記憶の中にある食堂のカレーに言及してみた、カレーのとき楽しかったなあ)などと、もう少し詳しく回答の文脈を検討してみれば了解可能な主張に近くなっていく。ただし、それは繰り返しになるけれども、そうしたコミュニケーションが適切だからと認識されているからにすぎないことを前提とした回答であって、ほんとうの「動機」などを特定することは困難だし、それを追求して何が嬉しいのか実のところよくわからない。AO入試の際に提出する志願書類に書いた「動機」も、入学後に書いた「動機」も、その文脈において了解可能な限りほんとうの「動機」である。
同じことは留年や中途退学について、ほんとうの「動機」を解明しようとすう行為にも指摘できる。もちろん、特に中退退学は学生のキャリアにとって不都合を生じさせることが多く、また、貸与奨学金を借りている場合の返済負担もその後の見込み所得に比べれば相対的に大きい。同時に、私立大学関係者にとってはお馴染みの経営上の重要な課題である。そのため、ほんとうの「動機」を分析したうえでその問題の解決を図るということが行われるのだけれども、はたしてほんとうの「動機」はほんとうの「動機」なのかという無限の繰り返しの問いが続くことになる。講義がつまらない、友人関係がよくない、やりたいことではなかったなどの「動機」は確かに了解可能であるものの、了解可能であるからこそそれらが挙げられているのだ。留年や中途退学を防ぐ対策はある部分では必要であるけれども―中途退学しても復学が容易である社会を構想することも必要だ―、「動機」の追及に多くの資源を割くのはもったいないことである。
ところで、筆者は「教育困難大学」という言葉を使って、現代のボーダーフリー大学における学生気質をテーマとした記事を連載している。今回の記事もその一連の連載の一つに位置付けられている。しかし、今回の記事もそうなのだけれども、大学全般の問題であるにもかかわらず、それをボーダーフリー大学固有の問題であるように見せかけていることがある。たとえば、来年に他の大学を受験する仮面浪人、大学の講義の水準を低く見積もって欠席を繰り返す学生への言及である。このこともまた「動機の語彙」ではあるものの、そのような概念を持ち出さなくても学生支援の現場では、そうした動機は常に揺れ動くことは知られているだろうし、かつ、この問題はボーダーフリー大学のみに表れるわけではない。たとえば、早稲田・慶應東工大・一橋の学生が仮面浪人をして東大を目指すのと同じことであるうえに、その「動機」は支援者の了解可能性が高いからゆえに選択されることもあるだろう。そして、難関大学であっても筆者のいう「表面的な志望動機」はよく聞かれることである。学生の語る「動機」を表面的なものであるとみなすか、ほんとうのものであるとみなすかは、いままさにこのブログを書いている私も埋め込まれているコミュニケーションの在り様に規定されている―数字前に「表面的」と評価してしまっている私…。
最後に、「学力」についてはもう少し慎重に考えるべきである。筆者は原稿用紙の使い方が適切ではない、という事例を挙げている。しかし、この記事からはそれは学力不足の問題なのか、その場で選択されるコミュニケーションの方法を取り違えているのかがわからない。字下げの無視、話し言葉の使用などは、難関大学の学生でも珍しいことではない。もちろん、両者の課題が相俟ってそうした表現が行われるのだけれども、後者の改善についての事例の積み重ねは初年次教育やリメディアル教育の分野において続けられてきた―「めっちゃ」「やばい」は書き言葉というコミュニケーションでは使わないよ、そうした言葉はそれ以外にもたくさんあるので今ここでいくつでも挙げてみよう、成人はどういう書き言葉を利用しているだろうね、と。もし、そのような日本語リテラシーに関する指導をしていないのであるとするならば、ご検討頂ければ幸いである。
以前、「意欲」のある学生に対してしか教育などできないとネット上で主張なさる学者がいらっしゃた。それと比較すれば、それでもなお、学習意欲があまりない学生に対しても教育しなければならないという記事の結論部分には同意できるところである。

「二つのライフ」

高大接続の本質―「学校と社会をつなぐ調査」から見えてきた課題 (どんな高校生が大学、社会で成長するのか2)

高大接続の本質―「学校と社会をつなぐ調査」から見えてきた課題 (どんな高校生が大学、社会で成長するのか2)

タイトルは『高大接続の本質』であるが、前半は1997年から行われている溝上グループの研究の総括である。後半において、その研究結果をふまえて高大接続に関する論点提起が行われている。
現在では大学生を対象とした研究はたくさん実施されている。しかし、溝上グループの研究開始時点では、それほど盛んであったわけではない。その状況の問題は、本書コラム1(22頁)で米国では昔から大学生研究が行われてきたこと(たとえば、UCLAのCIRP(COOPERATIVE INSTITUTIONAL RESEARCH PROGRAM))がわざわざ紹介されていたり、2000年代になって確かに正課教育に関心を持った調査は行われるようになったものの、それとキャリア支援・教育への関心が重なることはなかったこと(23頁)が説明されていたりすることからもわかることである。
一連の研究の中で、わかってきたことの一つが有名な「二つのライフ」の関係論である。

「あなたは、自分の将来についての見通し(将来こういう風でありたい)を持っていますか」という将来の見通しの有無をまず尋ね、“持っている”と回答した者には引き続き、「あなたはその見通しの実現に向かって、いま自分が何をすべきかわかっていますか。またそれを実行していますか」という、将来の見通しの実現に向かって日々何をしたらいいか、それを行動に移せているかの理解実行を尋ねている。
18頁

そして、溝上グループの研究をご存知ではなくても、この「二つのライフ」は学習意欲に関係することはすぐに思い付くであろう。実は、私はかつての勤務先のFDで溝上先生にお世話になり、「二つのライフ」について調査を実施したことがある。「見通しあり・理解実行」がかなり少ない(もちろん、職業的レリバンスの高い、いや、高く見えるような学部ではやや高い)、「見通しあり・理解・不実行」が多い、「見通しあり・不理解」、「見通しなし」もそれなりに多いという結果を見て、さて、何ができるだろうかと議論をしたのである。そこから、その勤務先におけるキャリア意識、現在の言葉でいうところの「アクティブ・ラーニング」、IRなどについての課題が出てきたのであった。
ところで、私は高大接続に関する調査をあまり追えていなかったので、本書は勉強になった。同調査の結果の一部は次のようにまとめられている(86-87頁)。

<1>高校2年時における4つの資質・能力は、大学1年時のそれぞれの資質・能力に大きく影響を及ぼす。(二宮注:4つの資質・能力とは複数の回答項目を統計的にまとめて、他者理解力、計画実行力、コミュニケーション・リーダーシップ力、社会文化探究心と名付けたもの)
<2>大学1年時で主体的な学習態度を持っていることが、資質・能力を身につけるために、アクティブラーニング外化を行うために重要である。
<3>大学1年時の主体的な学習態度は、同じく大学1年時の二つのライフで説明される。その二つのライフは、高校2年時のキャリア意識に大きな影響を受ける。
<4>高校2年時の資質・能力のなかでも、計画実行力は大学1年時の主体的な学習態度に影響を及ぼし、コミュニケーション・リーダーシップ力は同じく大学1年時のアクティブラーニング外化に影響を及ぼす。
<5>特にジェンダー、大学偏差値、学部学科、中高一貫の属性・社会的要因が、資質・能力や学習、キャリア意識に影響を及ぼす。
<6>高校2年次の勉学タイプ、勉強そこそこタイプは、大学1年時の学びと成長(資質・能力・学習、キャリア意識)につながる生徒タイプである。授業外学習を行う、キャリア意識が高い、対人関係、自尊関係が良好であること、すべてをバランスよく持ち合わせることがポイントである。(二宮注:生徒タイプとは複数の回答項目を統計的にまとめて、勉学タイプ、勉学そこそこタイプ、部活動タイプ、交友通信タイプ、読書マンガ傾向タイプ、ゲーム傾向タイプ、行事不参加タイプと名付けたもの)

この結果は初年次教育関係者にとっては、経験的にわかっていることであるとはいえ厳しいものである。筆者も指摘していることだが、たとえば、高校時代に家庭学習をする経験のなかった生徒が大学入学後にそれをするようになるのは難しいのかもしれない。どうすればよいだろうか。
私が半分程度納得する点1つと疑問を覚える点1つは次のことがらである。まず、半分程度納得する点は大学教育の内容・方法に関する工夫の開始が遅かったということである。

天野(2006)が述べたように、1990年代以降今日までの大学教育改革は、本来なら1970~80年代に行っておくべきだったものの後始末である。高度経済成長を経て経済大国として確立した時期、そして学校から仕事へのトランジションが幸せなことにもうまく機能していた時期にやりすごしてしまった教育改革を、バブル崩壊後の国内・国際的な仕事・社会の変化に対応しながら、さらなる少子高齢化やAIなども加味しながら進めているものである。
148頁

レジャーランド、カルチャーセンターなどと揶揄されていた時代に、どうしてそれをそのままとしていたのかという問題提起でもある。半分程度という留保を付けたのは、大学は大きなタンカーのような組織なので、臨機応変に舵を切ることが難しいためである。相応の時間が必要であったのかもしれない。そして、疑問を覚える点は、はてさて、高校、大学のその先において、何のために「自律的な学習者」になることが必要なのかということである。企業と連携した調査もあることから、見方によっては立派なビジネス・パーソン、企業人になるためのそれであると把握されるかもしれない。しかし、当然のことながら(言い古された言葉だが)大学は就職予備校ではなく、商売に有利というだけでは伝統的な研究者からの賛同は得られないかもしれない。将来の商売とは異なる次元での「自律的な学習者」になることの意味を考察したいところである。