不登校についての知識のブラッシュアップ

 大学院の後輩である樋口先生からお送り頂きました。ありがとうございます。
 先生にお会いしたのは私が博士後期課程の頃でした。会社を辞めて修士課程に進学したものの、周囲から研究したいことが理解されずに落胆したまま修士を修了し、再度日中は別の会社で働きつつ夜間にある研究機関の無給インターンのようなことをしていて、その夜の学習で従来の教育諸学とは異なる一般的な(?)政策に対するアプローチの方法を身につけて、多くの方にご迷惑をお掛けしながらも再起を図るべく博士後期課程へ進学した時期のことでした。そのときに次に引用するような先生のご経験のお話しを伺って、とても勉強になったことをよく覚えています。

 私は今、国立大学で准教授をしている。専門は社会学だ。3歳の子どもを持つ母親でもある。しかし、これまでの人生を振り返ると、先の見えない迷路を右往左往しながら歩いてきた感がある。過去をさかのぼると、中学と高校の両方で不登校を経験し、転校も経験した。中学は卒業式も出ず、最終的には高校も中退した。その後は中卒フリーターとして、親元を離れ、17歳から21歳まで4年半にわたり、仕事を求めさまざまな地域を転々としながら働いていた。その後、大学入学資格検定(今は高卒認定試験という名前になっている)を受検し、大学と大学院に進んだ。過去を振り返ると、私自身、どうすれば自分を活かすような人生を送れるのか、その手掛かりがあれば、もっと楽な人生が送れたと思う。
 今の時代はフリースクールガイドや高校進学のガイドブックがあるので、それをもとに次のステップに進むことができる。しかし、さらに次のステップに関する情報となると、極端に限られてくる。この本は、(1)私たちが生きる社会に関する学問(社会学)のうち不登校経験者や高校中退者に役立つ知識、(2)私自身が不登校研究を行うなかで得た知識、(3)私自身やほかの人の人生を振り返って「これは役に立った」「もっと早く気づけば良かったのに!」と思う3ポイントから成り立つ。
4-5頁

 私の身内などには不登校経験者―かつては「登校拒否」という言葉が使われていましたが、「拒否」は不正確な表現なので改められるようになりました―が少なくないことから、ずっと頷きながら読み進めました。私なりに身内に対して学校選びや勉強の支援をしていたこともありましたが「不登校後」について考えた機会はあまりなかったです。また、おそらく10年、20年前の知識や経験では現代の「不登校後」への対応に限界があるのでしょう。「学校では教えてくれない」という言葉が地上波のテレビ番組や書籍の宣伝として使われることがありますものの、この書籍は掛け値なしに学校で直接的には伝えらえることのない知恵を紹介しています。たとえば、学校では「隠れたカリキュラム」として否定的に捉えられる傾向があるかもしれない短時間アルバイトの価値や意味付け、公的資格・民間資格取得の実益とは異なる側面の精神的効用、「ぶっちゃけ」お金どうしようかという悩みへの示唆、「(たとえば20世紀後半には)そうであるべきで当たり前のことだ」とされてきたライフコースに関する規範の相対化などについて詳しく説明されています。
 規範の相対化はどんなときにも大事です。高等教育論の研究の立場からは、次のように語られる経験に関して学生文化に対する理解を精緻にする仕事が残されていることを知りました。

 私が中卒フリーターをしていたときには、周りにも高校中退者が多かった。また、学歴のある人と交流を持つことがあっても、共通する趣味でつながっているので、私が高校中退者であることで何かが起きるといったこともなかった。
 ところが大学に進学すると状況が一変した。しょっぱなから、大学のサークルの新人歓迎会で自己紹介があった際、先輩方が「わたくし、〇〇高校出身ッ」と言い、ほかの部員が「名門(めいもーん)?」と掛け声を掛けるという洗礼を受けた。どうしようと思っている間に、あっという間に自分の番が回ってきた。やむなく「ええと、わたくし〇〇高校中退ッ!」と言って、周りが一瞬固まったあの瞬間を今でも鮮明に思い出す。そのときは即座にムードメーカー的な先輩が「アツイ!」と言ってくれ、事なきを得た。
 後で知ったが、これは東京の一部の大学にある体育会系の文化の名残で、名門高校出身でなくてもこういう自己紹介の方法を取るそうだ。しかし、誰もが高校を卒業して大学に行くのだ、という常識があることに驚いた。大学入学資格検定の会場にはたくさんの人がいたし、大学にも同類の人がたくさんいると思っていたからだ。
125-126頁

みんなが同じ特定のライフコースを歩んでいるわけではなく、また歩まなければいけないわけでもまったくありません。本書でも言及されていますが、「常識」に立ち向かうことで社会を少しずつ変えるていくことが可能なのでしょう。かつての「登校拒否」に対するイメージが今では大きく変わったことも、様々な「常識」をうまく手放すことができたからかもしれません。