Cherrystone Clam

 「大学第一世代(First-Generation)」という言葉がある。両親の最終学歴が高校段階以下である大学生の抱える固有の困難に着目する概念である。主に米国でこの困難についての「問題」が「発見」されて、場合によっては必要な支援を行うという対応が図られてきた。

「ユニバーサル段階における"大学第一世代"への学習支援に関する基礎的研究」(科学研究費補助金基盤研究(B)、2003年~05年)
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15330179/

 日本でも、2000年代初頭にはすでに研究が始められている。しかし、あまり省みられることのない「問題」であるだろう。家庭環境について考えることは失礼である、両親など関係なくどんな環境でも努力すれば頑張れるはずだ、支援の対象をある層に限定するのは不公平である、こうした規範の存在がその理由であるかもしれない。

 ところで、今年の大学1年生が1998年生まれであって、そのときの両親が30歳であるとしよう。両親は1968年生まれである。1968年生まれが18歳になったのは1986年のことである。1986年の大学進学率は男子34.2%、女子12.5%、短大も含めた進学率は男子36.0%、女子33.5%である。なお、周知のように進学率は都道府県によって大きく異なる。これよりもはるかに高い地域、低い地域がそれぞれある。一方、2017年には男女ともに短大を含めた進学率は半数を超えている(専門学校を追加すれば8割に届く)。「大学第一世代」は思いのほか多いことが窺えるものの、同時に、それは少数派でしかない。しかしながら、私が重視するのは、まさしくこの少数派であるという点である。「大学第一世代」が圧倒的多数派であった時代、たとえば、団塊世代とはまったく異なる困難がある。周囲の多くが自らと似たような境遇であれば、その困難を集団的に解決できるかもしれない。しかし、もし、自分だけが大学に入って困っているようだとすれば、さてどうすればよいのだろう。両親からのアドバイスも期待できない、あるいは、大学に進学することが期待されていない場合で大学生活がイメージできるような生活(授業では扱われなかったけれども教科書の応用問題にも取り組んでみる(勉強はここまででいい、と決め付けない)、自分で書店や図書室で本を選んで精読したり乱読したりする、漠然とではなく困難を細かく特定して言語化したうえで適切な他者からの助言を求めるなど)をしてこなかったような状況で、大学での学習方法がわからない、各地から集まる同世代の他人の「ノリ」に合わせられない、サークルや部活動での楽しみ方がわからない、学習とアルバイトとの兼ね合いがわからない(タイムマネジメントができない)、こうした場合において、伝統的な大学であれば「学生は大人なのだから、自分自身で困難を解決しなさい」という回答が与えられたのだろうけれども、それはあくまでも学生が多数派であれば意味のある示唆であったにすぎない。少数派に対して「自分でどうにかせよ、それが公平である」という主張は、他の少数派について提起される社会的な「問題」と同じように、時としてあまりにも厳しい宣告となる。

http://diamond.jp/articles/-/139066

 そんなことを思い出したのは、「ダイヤモンドオンライン」の「岸博幸の政策ウォッチ」という定期コラムの中で「安倍政権の『出世払い型教育国債』は低レベル大学を延命させる」という記事を読んだからである。岸は慎重な姿勢を見せつつも、次のような表現で学ぶ意欲が少ない学生を問題視している。

これに対して日本では、大学生の大半は高校を卒業してそのまま(または浪人して)大学に入り、かつフルタイムの学生です。言い方が悪くなってしまいますが、学ぶ意欲も目的も不明確だけれど、周りに合わせて取りあえず大学に入ったという大学生も多いのではないかと思います。
(略)
というのは、もちろん学ぶ意欲がある学生や成績優秀な学生への支援は必要ですが、大学の数が多過ぎて水準にもかなりの差があり、かつ高校からストレートに大学に入る学生が圧倒的に多いなかで、学ぶ意欲や「成績優秀」の客観的な判断基準をつくれるのかが疑問だからです。

 岸の主張は、学ぶ意欲の少ない学生や、そうした学生が多くいると推測される低レベル大学(原文ママ)に進学するような学生は、卒業後に学費を返還することは難しいだろうし、かつ、学ぶ意欲の高い学生の多い大学を選別することは不可能なので豪州モデルの政策は採用できない、というものである。

 さて、おそらく岸もわかっているような節があるのだけれども、他人の持つ意欲の多寡を推し量るのは難しい。自分の意欲でさえ、その対象によって、その日の気分によって、周囲の状況によって変わるだろうから、それが高いとか低いとかを主張するのは躊躇してしまう。いや、実際の意欲の多少にかかわらず、それが高いと見せかけることは、恵まれた家庭に育っていれば簡単なことなのかもしれない。たとえば、新しく構想されるような入学試験において、中学・高校時代のボランティア経験や留学経験、授業とは関係のない探求的な学習活動、クラブ活動で収めた優秀な成績など、学ぶ意欲が高いことを試験担当者に類推させるようなポートフォリオを提出すればいいのだ。

 ここで、話しを元に戻そう。学業成績のみならず、意欲の多寡についても、そのすべてが本人の努力で説明されるということはなく、育った環境の影響を受けるということが教育社会学という学問分野で説明されてきた。初等中等教育段階での調査を元に明らかにされてきた事実であるものの、高等教育においても通じるテーマである。「両親が勉強を手伝ってくれた」「両親が劇場や美術館に連れていってくれた」「家庭に百科事典があった(これはさすがに古いか)」「両親が大学進学を勧めていた」「両親がよく本や新聞を読んでいた」などの設問に対する肯定的な回答と、学業成績や意欲が正の相関を見せるという定説である―なお、もちろん、これについて、とりわけ学者から私はそうではなかったけれども今の地位を達成したという反論を頂くことがよくあるのだけれども、そうした事例の存在を否定しているわけではない(田中角栄松下幸之助を見よ)、また、男親と女親とで影響の表れ方が違うということも明らかになっているのだがここでは触れない。「大学第一世代」は意欲を持つことについて、さらに言えば、意欲を持っていると他者に対して見せかけることについて不利な状況にあることが推測される。意欲の多寡を入学試験、学費貸与や奨学金支給のためなどの選別に用いるのは、学業成績と同じように、いや、基準が曖昧になるのでそれ以上に不利な層が益々不利になるという問題があるのかもしれない。それは「大学第一世代」ではなく、両親が大卒であっても何らかの事情で子どもに教育資源を十分には受け継げない場合でも同じことである。

 そして、岸の主張に対してひっかかったことのもう一つが低レベル大学(原文ママ)という言葉である。岸は次のように主張する。

このように考えると、単純に出世払いと国債の組み合わせというオーストラリア方式を導入するだけではダメで、少なくとも出来の悪い大学は潰す(=教育の市場から退出させる)仕組みを同時に導入することが必要なはずです。それなしには、政策目的は教育無償化と耳触りがよくても、結果的に出来の悪い大学が生き残るための補助金に化けてしまい、文科省の権限と予算が膨張するだけです。

 行間から推測すると、どうやら入試偏差値の低い大学を意味するようである。これも周知のようにいわゆる銘柄大学でも「出来の悪い」講義・授業をなさる先生がいたり、学生が受ける英語の外部試験のスコアが学年進行に伴って下がっていったりするわけだけれども、おそらくそれを指しているわけではない。また、入試偏差値は入試形態やその入試による合格者人数の設定などによってある程度の操作が可能であり、さらに、その低さは大学の立地、設置主体、競合する大学の有無、その地域における高校生の数、など様々な要因の影響を受けた結果であって、当然のことなのだけれども教育内容の適否を反映しているわけではない。そうした各事情によって入試偏差値は低いものの、学生の、それこそ意欲の喚起に成功しているとして有名な大学が沢山あるのだ―ただし、その意欲の喚起は伝統的な学業を媒介とするわけではないので、学者からは睨まれることもある。
 
 入試偏差値が低い大学を潰すべきだという主張は、ある意味でポルノグラフィ的であるとも言えるのか(≒えふらんバッシングぽるの?))、私たちの劣情なり卑しい心なり―それは限られた国家予算を適切に配分するためだ、エリートにこそ予算をつぎ込むべきだといった正義感を伴うことさえあって厄介である―を喚起させる傾向がある。ページ閲覧回数も稼げるからか、あまりにもよく見かけるテーマである。しかしながら、だからこそ、学者が仮にそうした主張を展開したい場合には、使うデータや概念に気をつけなくてはならないはずである。私は岸の主張を必ずしも全面的に否定するというわけではないのだが、そうであってもより慎重な議論が必要という立場をとるのである。