志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

発売当初話題になっていたものの、勇気がないためにとても読むことができなかった。しかし、最近再び取り上げられていたので、ようやく意を決して読んでみることにした。


私が吃音であることを思い出したのは20代半ばの頃であった。親しい友だちが私の話し方の癖に言及したことで、そう言えば小学校に通うよりも以前に吃音である旨を周囲から指摘されていたことに気が付いたのである。それまで20年ほどすっかり吃音のことを忘れていたのだ。成長すれば直になくなるだろう、何かのトレーニングが必要なんてことはない、とかかり付けの医師から言われていた気がするのである。ところが、である。20代半ば以降、私の場合は明らかに吃音がひどくなってきた。最初の一文字がどうしても出てこないのである。そのため、ゼミや研究会で黙ってしまって、私としてはあまり納得できない誤解をされてしまうことがよくあった―あいつは議論の貢献をまったくしてない!研究の場面では不利もあるな、と思うのである*1
しかしながら、数年前にそんないやな思いを吹き飛ばすようなできごとがあった。多くの学生は私が講義中に黙ってしまうとき、先生は何か考え事をしているに違いない、こんな雰囲気こそが大学だ、と判断しているらしい。実際には、吃音があまりにも厳しいので、平静さを取り戻すための時間稼ぎをしているにすぎないにもかかわらずである。そうしたなかで、プレゼンテーションを扱う授業の終了後、ある学生が「先生も吃音ですよね、わかります、私もそうなので」と話しかけてきたのである。私の吃音を見抜いたのだ。そして、「先生の姿を見て、自分も何とかなるかもしれない」と続けたのだ。


励まされたのは、むしろ私である。




とりとめのない結論。皆さんが気にするほど、周囲は吃音について関心がないかもしれない。多くの学生の誤解がその証かもしれない。

*1:ただし、吃音の研究者とは妙な連帯を互いに感じることもある。