ビジネスとしての高等教育―営利大学の勃興

ビジネスとしての高等教育―営利大学の勃興

  • 作者: デビッド・W.ブレネマン,サラ・E.ターナー,ブライアンパッサー,David W. Breneman,Sarah E. Turner,Brian Pusser,田部井潤,渡部晃正,栗栖淳,遠藤克弥
  • 出版社/メーカー: 出版研
  • 発売日: 2011/06
  • メディア: 単行本
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営利大学と、公立・非営利大学とでは、たとえば学生層に重なりがあまりないこと、また、営利大学では職業上の「技能の上達」への関心が極めて強いために学位の種類に言わば「偏り」があったり、設置される傾向のある州は当然のことながら「市場」として有望であるところであったりすることは、もし、営利大学を「異形」の高等教育機関として否定したいというのならば、公立・非営利大学がそうした成人教育への関心の高まりを見過ごしてきたことを反省しなければならないことを意味するのだろう。営利大学の種類の多様性、たとえば、認証評価を受ける/受けない、また、適格認定を受けたもの、タイトル4の支援の必要のない企業内大学、適格認定をすでに受けたところと連携するもの(31頁)は、社会的に求められてきたものを個々に受けとめたことの反映であるのかもしれない。
また、そもそもどこが営利大学で、どこがそうでないのだと、設置形態だけを見るのではなくて、その教育機関のすべての営みを見渡したうえで言い切ることができるかは確かに難しい。公立・非営利大学であっても、そこで行われているサマーセッションは、「起業的な余剰収益創出モデル」(130頁)であるとのことだ。このことは、私の勤務校で考えなければならない問題の一つとして挙げられているので、日米の税制の違いや団体観/法人観(?)の違いはあるとはいえ、とても参考になる―仮に、勤務校が何らかの形態で利益/損失が生じたとして、その処分の方法がよくわからない。
フェニックス大学の事例で面白いのは、図書館のあり方である。「煉瓦とモルタル造りの図書館」は不要であって、電子媒体の文献があればよいとされる。100年間で1人が読むだけのような文献を保有しなくてもよいということは、この営利大学の価値観からすれば当然のことである。そうした伝統的な高等教育機関では削ることのできない費用を節約して、ほとんどの授業で15〜20人のクラスサイズを維持できているのだから(オンライン授業の場合はわずか12人まで)、ある意味で羨ましいとも思えるのである―もちろん、羨ましくない、嫌な部分も多々ある。
教員文化についても独特のものがあるようなのだが、これはまた別の機会に。成人学生を対象にするという点で、MBAの教員に近しい文化を感じるのである。