昨日のエントリに対して、複数の教育社会学の研究者からコメントを頂いた。ありがとうございます。
能力測定や選抜のあり方に対して吟味すること、適切に操縦すること、これらの必要性に関するご指摘はもっともである。私がこの論点に踏み込めなかったのは、また、悲観的な姿勢になっていたのは、前者の吟味という点についてはわかるにしても、後者の操縦するという点でそれがどのレベルで可能なのかよくわからないためである。もし、実践のレベルで操縦を行おうとするならば、私はなかなか展望を見出すことができない。たとえば、小山(2010)が指摘する企業の採用基準が不明確になる理由は、その当事者企業でさえも能力測定や選抜のあり方を操縦することが決して容易ではないことを示しているようにみえる。学生と企業との相互行為のなかで、それらは常に揺れ動いている。当然、単純な「企業悪玉仮説」は採用できない。もう一つ、同じく実践のレベルにおいて、昨日のエントリに追加した「契約自由の原則」や「採用の自由」といった法規上の論点に関する私の不勉強ゆえの、それらを克服する見通しを持つことができない悩みがある。もちろん、それは分野外のテーマであるにせよ重要な桎梏であるのだから看過してしまうことはできない。
展望や見通しがなかったとしても、だからといって敗北主義になってはならないということは理解しているつもりではある。頂戴したコメントに対して、まったくその通りであるという思いと、ではどうしようかという戸惑いの両者を感じた次第である。


小山治、2010、「なぜ企業の採用基準は不明確になるのか」苅谷剛彦本田由紀編『大卒就職の社会学東京大学出版会






ここからは体験談である。上記に書いたこととはまったく関係がない。まして、論証につながるわけでもない。私の初職の企業においては、当時、毎年約100名の採用枠に対して数万名のES提出があった。内々定はより多く出しておく。その数の多さが原因であるとは言い切れないものの、採用チームや各部署(現場)の責任者は「正確な」能力測定など当初から考えていない節があった。採用チームの一員は街頭のキャッチセールスを真似して、キャッチ採用をしたらどうか、などという冗談を言っていたほどである。一方、最後に勤務した企業では「正確な」能力測定に対してナイーブであると思われるほど力を入れていた。面接は学術的な聞き取りかと思うほどのものである。このどちらが望ましいのか、いまだによくわからない。