編者からお送りいただきました。ありがとうございます。
大学教育を対象とする研究としてよく見かける方法は、ある特定の授業1回分、15回分、複数の講義から構成される「コース」の受講後にアンケートを行うものである。アンケート結果を集計、分析することによって、期末試験やレポート課題では評価することのできない〔学生〕の到達度、満足度、知的関心の広がり、コンピテンシーなどを検討の対象とするのである。それに対して本書は、主にゼミナールにおける古典や学術的専門書を通じた学習における〔学生〕の成長と〔教員〕の省察が描かれている。前者の〔学生〕の成長についてはこれまで量的調査のみならず、数は少ないものの質的調査によっても把握されてきた。他方で、初等中等学校の研究で対象とされてきた〔教員〕の省察は高等教育研究においては等閑視されてきたのであって、本書のような取り組みは珍しいのである。CiNiiで「教師 省察」を検索すると約1,400件の文献がヒットするのに対して、「学者 省察」や「研究者 省察」はそれぞれ200件に満たないうえにそのほとんどは大学教員による教育に対する省察を扱うものではない。各章で、「なぜその文献をその大学の学科やコースのゼミナールで扱うべきなのか」、「必ずしも目的どおりには学生の理解が進まないとき、ときには誤読が起きてしまうときに何を考えたか、どうしてみたか、してみた結果どうなったか」、「すべての回を終えてみて何がどのように達成できたと自己評価するか」、「自己評価をしたうえで、専門書を読むことについて指導することの現代的な意義は何か」などのリフレクションが行われている。大学教員にとって他の教員のリフレクションを読むことは極めて有意義である。本書はあくまでも〔学生〕による読書を中心的な課題としているものの、大学教員の皆さまには省察に着目することをお勧めしたい。本書終盤の「鼎談」では編者の対談形式にによるリフレクション、「あとがきにかえて」では各著者によるさらなるリフレクションが示されていて読み応えがある。なお、二宮個人としては、教育社会学者がゼミナールでJohn Deweyの『民主主義と教育』を読む章がとてもスリリングであった。他の候補として挙げられていたというプロ倫のほうが教員としては扱いやすいはずである。教育哲学の古典については表面的に理解しているだけであって、自信をもって学生を指導することにはたじろいでしまうのである。ところで、本書で設定された課題を大幅に超えてしまうものの、もう少し知りたいことがある。紹介されているゼミナール(一部にはゼミナールではない授業も含まれている)は、「文化史入門(講義)、1~4年生、23名」、「ゼミ(演習)、3年生、8名」、「導入ゼミ(演習)、1年生、16名」、「学術ゼミ(哲学)(演習)、2~4年生、7名」、「オリエンテーションゼミ(演習)、1年生、15名」、「ゼミ(演習)、3年生、13名」、「基礎演習/必修演習、2年生、20名」、「専門演習Ⅰ・Ⅱ、3年生、12名」、「演習ⅡB(アカデミック・スキルズ)、2年生、23名(前年度22名)」、「ゼミ(演習)(心理学)、3年生、14名」、「ゼミ(演習)、3年生、6名」である。卒業論文の執筆に直接的に繋がる高年次対象のもの、初年次教育を目的とした低年次対象のもの、そのどちらでもないものの3種のゼミナールが含まれているようである。いずれも少人数で一冊のテキストをじっくり読むということは共通していることを前提としたうえで、カリキュラム上の配置によってそれぞれに異なるゼミナールの目的が〔学生〕の成長と〔教員〕の省察に与える影響について考えるという、面白い課題が残されているように見えるのである。また、それとも関連して教員によるゼミナールに対する考え方を理解したい。教員によってゼミナールでの指導方法にさまざまな種類があるように見える。真理の前における教員は学生と同等の学習者であって指導的立場を取らないというような事例もあれば、積極的に学生の誤読へ対応する事例もある。文献会読以外の多様な学習を取り入れる事例もあれば、文献のみを扱う事例もある。おそらく、教員じしんがかつて学生(学部生、大学院生)として経験したゼミナール教育の影響を受けているのであろう。それはいわゆる「大学改革」の前後では異なるものかもしれないし、学問分野によってもそれぞれ固有の慣行があるのかもしれない。教員の経験がゼミナール教育に及ぼす影響について考察するという課題もあるはずなのだ。