先日の朝日に掲載された野中郁次郎の記事の件、暗黙知の概念を誤解しているという指摘、ほんとうは正確に理解しているけれどもあえて間違った使い方をしているという指摘、どちらの指摘が妥当なのだろうか。
暗黙知については、ちょうど先日の研究会で考えていたところであった。野中郁次郎の暗黙知理解の特徴についても言及があった。以下、その発表資料である。
- 作者: ヒューローダー,ジョアンヌディラボー,A.H.ハルゼー,フィリップブラウン,Phillip Brown,Jo‐Anne Dillabough,Hugh Lauder,A.H. Halsey,広田照幸,吉田文,本田由紀
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2012/04
- メディア: 単行本
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第4章 デイヴィド・ガイル、潮木守一訳、「知識経済の特徴とは何か?―教育への意味」
【要旨】
1.はじめに
2.知識経済にとって不可欠な理論知
高度産業社会における知識の影響力に強く注目した人物としてD, Bellを取り上げる。
Bellの主張
- 高度産業社会を特徴づけ、経済発展にとって中核的な原理となったものは理論知である。
理論知:諸々の事実・アイディアを組織的に記述し、合理的な判断と、実験によって確認された結果
- 理論知が新たな役割を獲得したのは、経済の中心が製造業からサービス業に移行したため。
道具や機械についての日常的な知識 → 「知能をもった技術」という新しい用語
Bellやその他の議論の精緻化を進めた人物としてM, Castellsを取り上げる。
Castellsの主張
- 知識(情報の生産、加工、伝達)は、生産性と権力の基礎的な要素となり、土地、労働、資本に勝る地位を獲得した。
- 「グローバル化」、「ネットワーク化」:広範な情報通信技術の普及は、「情報経済」という新しい経済のパラダイムをもたらし、それは情報に対する需要を増加させ、その生産を拡大させる。
グローバル経済における勝敗はビジネス効率を向上させる情報の生産、加工、応用に左右される
Bell、Castellsの議論は社会科学者、政策決定者に対して、経済変化の特徴を理解するための重要な枠組みを提供してきた。
経済発展の原動力=知識
Bell:科学の応用 Castells:情報通信技術という科学の技術的な応用+産出されるデータの応用
3.知識経済の必要条件としての暗黙知
理論知を頂点に置くBell、Castellsとは対照的に、暗黙知こそが知識資源の中核部分であると主張するM. Gibbons、野中・竹内を取り上げる。
Gibbonsの主張
- モード1の知識とモード2の知識を区別する。前者は、大学内で行われる既存の専門領域をベースとする研究から生み出される知識。後者は、「応用という文脈」のなかで、「基礎と応用、理論と実際との絶え間ないいったりきたりのなかで」作り出される、専門領域の枠を超えた、異質なモードの知識。
- 実務家集団は科学者と同じように暗黙のうちに「知識資源のさまざまな配列」を再構成している。
- コード化された知識とコード化が難しい暗黙知を区別する。グローバル経済のなかで生き残るには、生産現場が商業利益をもたらす暗黙知の配置図をつねに発見し続けることが必要だ。
● M. Gibbonsのモード2の含意・高等教育の拡張には、これまでほとんど吟味されてこなかった含意がある。多くの人々が科学に通暁し、その方法を使う能力をもつようになるだけでなく、これらの人々の多くが研究的側面をもつ活動に従事するようになる。彼らは、訓練を受けた大学からかなり隔たったコンテクストや状況のなかで、知識や技能を幅広い問題に適用する。(マイケル・ギボンズ、小林信一監訳、1997、『現代社会と知の創造―モード論とは何か』丸善、p.39)
・モード2が要求することの一つは、知識を利用するためには、知識生産に参加しなければならないということである。(同書、p.45)
● M. Polanyiの暗黙知・技能的(技能をもって行う)行為の目標が達成されるのは、それに伴う個人にはそれ自体としては知られることのない一組の規則を遵守することによってである。(マイケル・ポラニー、長尾史郎訳、1985、『個人的知識―脱批判哲学をめざして』ハーベスト社、p.46)
・詳細に規定する(詳記する、特定する、specify)ことのできない技芸は。指示書きで伝達することは不可能だ―その指示書きが存在しないのだから。(同書、p.49)
・人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くのことを知ることができる、という事実である。(マイケル・ポラニー、佐藤敬三訳、1980、『暗黙知の次元』紀伊国屋書店、p.15)
・ゲシュタルト心理学によれば、対象の外見的特徴が認知されるのは、網膜や脳に刷り込まれた諸細目がたがいにおのずと均衡のとれた状態に達することによる、と考えられている。しかし私はそれとは反対に、ゲシュタルトは、我々が知識を探求するときに経験を能動的に形成する活動の結果として成立する、と考えている。(略)この能動的形成、あるいは統合こそが、知識の成立にとって欠くことのできぬ偉大な暗黙的な力である。(同書、p.18)
野中・竹内の主張
- 知識は「形式知(口頭あるいは文章を通じて交換される情報)と暗黙知(仕事のなかで直感的に作り出される知識)」との螺旋状の相互作用」を通じて作り出される。
- 労働者が行う形式知と暗黙知との螺旋状の相互作用が、知識生産の中核的な部分だと主張している。この螺旋状の相互作用を通じて、「比喩、類比、概念、仮説、モデル」など、われわれが直感的な理解と呼ぶものを通じて、暗黙知は明示的な知識へと変化する。いったん暗黙知が明示的な状態になると、今度はそれが労働者間の共通の知識となり、さらに多くの労働者のレパートリーとなり、労働者はそれを用いて、生産方式、サービス方式、分配サービスを変えてゆく。
4.知識経済に関する科学的リアリズムとポストモダンの概念
Bell、Castellsの議論の問題点を指摘したうえで、Gibbonsや野中・竹内の議論のポストモダン的な性格を明らかにする。
Bell、Castellsの議論の問題点
- 科学的な知識は、すでに与えられたものとして理解した。そのため、科学的な知識が外部環境からの影響の産物であり、その専門分野内での議論の産物であることを見落とした。
- 理論知と情報を、認知可能な文化的な客体物とみなし、容易に獲得可能で、また容易に問題解決に応用できるものとみなした。
→ 新しい変化が生じる理由を理解するためには、科学技術の発展と応用に文化がいかに貢献するかをはっきり認識しなければならない。
Gibbonsの議論
- モード2の知識は不完全である。絶えず異議申し立てに晒されたり、モード1からモード2への境界線それ自身の再定義と再解釈が求められたりするため。
- 科学と社会との壁が低くなればなるほど、科学は容易に反論できるものなり、それとともにモード2の知識が、科学界ばかりか、さらに広い社会全体から求められることになる。
野中・竹内の議論
- 一見すると、ポストモダンの影響を見出すことは困難である。しかし、明らかに知識についての複眼的な理解というポストモダンの影響が見られる。
- 知識生産に避けがたい「主観的で、身体的な、暗黙の側面」があることを強調している。
- 暗黙知と理論知についてきわめて革新的な議論を立てている。知識経済のもとでは、この両者はともに同じく重要な知識形態であると主張する。
5.知識・文化・知識経済
Polanyiの議論の引き取り方の問題点を明らかにする。そのうえで、S. Zuboffの議論の利点を明らかにする。
暗黙知の特徴
- まだ形にならない知識でもなく、未成熟の知識でもなく、曖昧な形の知識でもなかった。それは決して他人に理解され、実践に役立つために、明示的な形をとるよう求められている知識ではなかった。
- 科学は暗黙の次元を持っている。明確に定義された知識と規則だけにしたがっていれば発見できるのではなく、その意味では、芸術の世界と同じだとみていた。
- 知識は、理論知と暗黙知が互いに関連しあう性格を持っている(相互作用)。
Gibbonsの引き取り方
- 科学者の専門知よりも暗黙知の方を高く評価した結果、専門分野を跨って仕事をする時、彼らが、かつて組織的に獲得した専門知や、その後科学者集団のなかで継続的に獲得した専門知にどれほど支えられているか、それを正当に評価することができなかった。
野中・竹内の引き取り方
- あたかも感覚的に獲得された知識の、直感的で無意識的な形態であるかのように理解したため、かなり限定された形の暗黙知だけが、知識経済では重要な資源であるかのような結論に至ってしまった。
● 野中ほかの暗黙知・知識は「個人的で主観的な」知識と、「社会的で客観的な」知識という二つの側面に分類されます。われわれは、すべての知識をこの暗黙知と形式知の二つのタイプの知に還元します。思い切った単純化ですが、単純化は強力な思考力を発揮させます。(野中郁次郎・紺野登、2003、『知識創造の方法論―ナレッジワーカーの作法』東洋経済新報社、p.55)
・暗黙知と形式知の相互作用は一連の知識創造のプロセスを生み出します。知識の創造とは、暗黙知を豊かにしつつ、形式知化し、次にそれらを組み合わせ、実践に結びつけることで、再び新たな暗黙知を形成する、というダイナミックな螺旋運動のプロセスととらえられるのです。このように暗黙知と形式知の相互変換による知識創造プロセスは、共同化(暗黙知から新たに暗黙知を生み出すプロセス)、表出化(暗黙知から新たに形式知を生み出すプロセス)、連結化(形式知から新たに形式知を生み出すプロセス)、内面化(形式知から新たに暗黙知を生み出すプロセス)の四つからなっています。(同書、p.58)
Zuboffの議論
- 機械技術に求められる知識・スキル=行動中心型スキルと、情報技術に求められる知識・スキル=知能的スキルはタイプが違う。
- 電子環境のなかで働く場合には、「感覚的な経験から生まれるノウハウを実行する」よりも、むしろ「理論的」、もしくは「システム的に思考する」能力が、労働者には必要となる。
- 暗黙知が依然として重要なのは、われわれの頭のなかの長期的な記憶が、精密な言語や視覚化された文脈に対する反応よりも、むしろ意味の把握の基礎となっているからである。
- 生産過程で起こるさまざまな事件を処理する能力、他の仲間がいうことを理解するコミュニケーション能力、集団的な議論に参加する能力、これらが必要となる。
- ポランニーと同様、理論知と暗黙知の両方を活用しながら、知識を解釈し、共有し、創造する能力が形成されると説いた。
- 彼女の考察は2つの異なった形の知識をどうやって互いに関係づけるかという、厄介な問題を突きつけることになる。
6.認識文化と知識経済
K. Knorr Cetinaが主張する「認識文化」という概念について検討する。
認識文化
- 特定の世界に住むわれわれが、何を、どのように知るかを規定している、諸々の装置とメカニズムの合成体のことである。それらは類似性、必要性、歴史的な偶然性などによって規定されている。認識文化とは、知識を作り出し、その質を保証している文化のことで、しかも全世界を通じて最高の知的な制度は、依然として科学である。
- 科学の生産と応用を規定する上で決定的な役割を演じている。
- 知識経済(知識社会)を、それ以前の経済(社会)から区別するものは、この認識文化の広がりだという。
対象物中心の関係
- 認識文化のなかに伝統的に存在していた、ある種の構造的な形。
- 科学研究の場面での「対象物中心の関係」の特徴とは、「疑問を立てる」局面と、研究過程を構造化させるために、さまざまな技術的な対象物を利用する局面と、そしてその研究課題に「答え」を出す局面との相互作用に特徴がある。
- いまや科学以外の分野にまで拡大してきている。
教育政策に対する示唆
- 現在の教育政策は教科の内容とか基本的なスキルの習得を重視するだけで、こうした能力育成(新たなタイプの専門的な能力)を重視し絵地ない。それだけでなく、知識経済の発展を支える教育政策がいかにあるべきかについて、基本的に間違った問題設定に立っている。
- 知識文化と知識労働の間の関係は複雑である。経済全体をひとまとめにして、知識経済として既述するのではなく、それぞれの分野ごとに、いかなり文化が知識生産を促進してきたかを明らかにするほうが、もっと役立つだろう。さらにまた、知識文化の普及に必要な認識論的な前提条件を明らかにすることのほうが、研究者にも政策決定者にも、はるかに役立つことであろう。
7.知識経済のなかで「知識」のもつ教育上の意味
現在の教育政策の問題点を指摘する。
イギリスとEUの教育政策の特徴
- 知識経済という概念を、2つの意味で使ってきた。つまり1つは経済活動の将来ヴィジョンとしてであり、もう1つは生涯学習政策の原理としてである。
- 知識、学習、経済成長三者の関連を当然のこととみなした結果、政策決定者たちはベランド・カステルスに倣って、政策実現のための設計戦略を採用した。彼らは、達成すべき成果を生み出すために、参加の拡大、学習の質保証の枠組み、資格の標準化などを、「デザイン」することが必要と考えた。
- こうした枠組みを強調した結果、その教育政策では、いかなるタイプの知識が求められているのか、ほとんど明らかにされず、それらを獲得するにはどうしたらよいのかは、ほとんど議論されてこなかった。この問題にどう答えるか、これまでの教育政策では、ほとんど議論されてこなかった。
高等教育の問題
- 2つのタイプの知識の相違が強調されていて、両者の相互依存が考慮されていない。
- 緊張が高まっている。1つは、伝統的に期待されてきたような形で知識を使えるものとみなす立場と(既成の専門分野)、学習者はそれぞれ異なった文脈のなかで応用可能な基礎スキルを発達させるとする立場の緊張である。
→ 教科内容の知識獲得 vs 文脈から自由なスキルを特殊な文脈の中で獲得
- 第2の緊張は、「各教科の知識内容」の獲得を重視する伝統的な立場と、知識の多様性を強調するポストモダンの高等教育政策との対立である。
→ 各専門分野を構成する知識内容を把握する能力 vs その否定
- 皮肉にも高等教育のカリキュラムを近代化し、多様なタイプの知識を受け入れ、それを教え、資格認定の対象としようとする試みは、学習者にこうした異なったタイプの知識を関係づける方法を示さないまま放置している。
8.結論
知識観について
社会科学者たちは次の2つの意味で、知識経済の特徴を把握することに失敗している。まず社会学的には知識と文化との相互依存を理解する点で失敗し、哲学的には、この2種類の知識の相互依存を理解する点で失敗している。
教育政策について
むしろもっと焦点を当てるべきは、知識経済・社会での労働・生活にとって鍵となるのは、共同作業でありコミュニケーションであり、こうしたタイプの生活場面で求めれる知識能力をいかにして伸ばすかという問題である。
【疑問点、論点】
1.「モード1」において科学者の持っている「暗黙知」については理解できる。研究室内にいてある科学上の発見をするためには、「個人的な要素」と呼ばれるものや、明示することは難しいような芸術的な感覚といったものが必要であるのだろう。他方、筆者が高く評価しているZuboffの議論における「暗黙知」に関しては、もう少し理解を深めたいと思う。機械技術に求められる知識・スキルと情報技術に求められるそれの区別がわからなかった。電子環境のなかで働く場合であっても、「感覚的な経験」はなお必要ではないのだろうか。たとえば、数値制御(NC)旋盤を利用した工作において、当該旋盤固有の癖のようなものを「感覚的」に理解したり、ある夕方の小売店で平均日販に届かない状況において、その理由を各種データから「推論」したりすることに「感覚的な経験」は縁のないことなのだろうか。
2.また、そうした現代の労働過程において必要とされる「暗黙知」は教育機関において習得可能な概念として理解できるか/教育機関は何ができるのか。「労働者が知能的なスキルに結びついた暗黙知を開発させるためには、特定の文化的な条件がみたされる必要があるとした。(略)第2に必要なのは、職場のなかで実際に情報通信技術を使って、(1) データのパターンや相互関係の意味を把握し、(2) 職場文化のなかで対話や参加を通じて意味を作り出し、(3) データ解釈のために、概念的な枠組みを適用して、問題の所在を明らかにし、それを解決する、そういう機会が与えられる必要がある」(p.191)とされるものの、それは職場の中だけに限定されるもの/されるべきものものなのか。そうした訓練に「適応」できるようなレディネスとはどのようなものなのか。
3.「認識文化」について、トレイダーの事例は納得できる。問いを立てる、プロセスを構造化するために技術的な対象物を利用する、答えを出す、確かにこれらの局面の相互作用はありそうだ。しかし、この事例はあまりにも特異ではなかろうか。生産・品質管理、セールス(法人/個人、ルート/新規開拓)、販売、事務などのトレイダーよりは多くの人びとが就業しているような職種においても、このような「認識文化」は拡がっているのか、または、これから拡がっていくのか。トレイダーは特異な事例という位置付けにはならないのだろうか。
4.現代の日本の「大学改革」における知識観はどのようなものだろうか。筆者は高等教育政策における知識観を「伝統的な知識観」、「功利主義的な知識観」、「ポストモダンの知識観」(p.195)に分類している。現代の「改革」の具体的方針として示されているナンバリング、シラバス整備、ルーブリック、チューニングなどの諸施策は「伝統的な知識観」によるものであるかもしれない。同時に、「知識はある目標達成のための手段とみなされる」という「功利主義的な知識観」も存在するだろう。さらに、たとえば、
生涯学び続ける力、主体的に考える力を持った人材は、学生からみて受動的な教育の場では育成することができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニングへの転換が必要である。すなわち個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛える、ディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業への転換によって、学生の主体的な学修を促す質の高い学士課程教育を進めることが求められる。学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続ける力を修得できるのである。
中央教育審議会大学分科会(第109回)大学教育部会(第21回)2012.8.9「未来を創出する大学教育の構築に向けて(答申案)―生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」
にみられるように、「文脈から自由なスキル」を模索するという点では「ポストモダンの知識観」なのかもしれない。あるいは、この3分類には該当しない知識観もあるだろうか。