松本美奈「取材ノートから」『IDE現代の高等教育』No.573
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ここで紹介されているのは、おそらく日本高等教育学会第18回大会である。そして、私は同じく紹介されている大学院に関する部会に参加していた。そのときの私の勉強ノートを読み返すと、私は教室の前列中央に座っていて、筆者は後から入室して後方右側に座っていたようである。確かに、先行研究のリファーが甘かったり、試論的な水準にとどまっていたりする発表もあった。質疑応答ではそうした問題をめぐって、学会を主導する学者や気鋭の若手などによる活発な議論が行われていた。発表者は研究をより洗練するための宿題を多く持ち帰ることができたはずである。私も今回別の部会で頂いた厳しいコメントをもとに、研究を練り直している。
「わかるように説明してほしい」「現代の課題が扱われていないので意味がない」「実りのある議論をするべきだ」、こうした学会批判の記事を読むと、学会も大衆化、〈消費者主義〉化したものであると感慨深くなる。あたかも大学の授業のようであって、学者への要求が生産に携わることのない消費者の立場から行われている。〈消費者主義〉が当然である「界/シャン」(?)では、知識の受け手が「わかるように」努力する必要はなく、専ら知識生産の担い手に「わかる」ことに関する責任が帰せられる。しかし、私の印象では、学会とは学者がその専門に関する研究を同じ分野の学者向けに発表する場である。そのため、短い時間を効率よく利用するべく、もちろん先行研究に触れつつも高い文脈で、前後の脈絡を省いて議論が展開することになる。わざわざ触れない先行研究についても、当然参加者のほとんどが知っているはずであるという前提である。専門外の方に対して「わかるように」話しをすることの優先順位はどうしても低くなる。また、「現代の課題」だけを扱うことが学会の目的ではないし、参加者も一人の知識生産の担い手として「実りある議論」になるように積極的に貢献しなければならない。さらに言えば、この学会は教育社会学、教育経済学、政策科学の立場をとることが多いことから、いわゆる実践知の生産は他の学会に任せている。とはいえ、生産された知識を社会に提供することも学会の使命であることから、一般の参加者を広く募るシンポジウムを設けることもある。シンポジウムと一般の部会ではねらいが異なるのである。
この記事に関連して、様々な大学教育関連の学会に参加する職員さん、教材屋さん、大学教育コンサルティングさん、マスコミ関係者に尋ねてみたい。学会参加が物見遊山になっていないかどうか、知識の消費にとどまっていないかどうか。学会後のネット上では、こういうことが勉強になって残された論点はこれだというコメントよりは、ただ単に楽しかったという感想、有名な学者を見つけたという報告、あいつは良い/ダメだという何やら大御所のような一言コメントが目立つのである。私は多様な方が学会に参加されるのはよいことだと理解しているものの、しかし、そこでは参加者は知識生産に貢献しなければならないはずなのである。
あなたの「勉強」は消費に過ぎないのではないか、と問われたときの反論の準備を!