中教審「学士課程教育の構築に向けて」答申案が公開されている。「21世紀型市民」の内容に関する参考指針である「学士力」、および、それに基づく学位授与の方針の策定に当たってのPDCAサイクルの稼動、やはり、これらは手放さないようである。「若年者就職基礎能力」、「社会人基礎力」といった極めて曖昧な「産業界語」的概念を本文から外したのは好感を持つことができるものの、なお、答申の目玉であると自画自賛的に吹聴されている「学士力」について、教育課程との関係がまったく示されていないために(また、「21世紀型市民」や「学士力」を英語でどのように(恥ずかしい思いをすることなく)説明するのだろう…)、評価は厳しいものとならざるを得ない。
そして、PDCAサイクルが、生産過程の継続的な改良という意味から大幅にずれて用いられていることも問題である。これは、デミングの業績の功罪とも言えるのであろうが、一民間企業が業務過程を分かりやすく簡略化して説明するために、慣用句的に、あるいは、メタファーとしてPDCAサイクルを挙げるのは十分に理解できることである。オシャカを減らすこととリードタイムを短縮すること、この両者の営みの意味は実は労働者にとって異なるのだが、何れもPDCAサイクルが適用されてQCサークルの活動に「分かりやすく」組み込まれる。しかしながら、答申の文言として利用して、大学にその施行を求めるというのはどうだろうか。例えば、大学の業務過程をPDCAサイクルで図式化することが可能であるのか、また、可能だとして意味はあるのか。PDCAサイクルの導入で、本当に業績が向上したり、品質が保障されることになったりするのだろうか。既にその導入を謳っている大学も複数あるのだが、成功しているとは聞こえてこない。むしろ、労働社会学が指摘してきたように、その具体的プログラムである日本のTQCQCサークル(デミングの概念は米国よりも日本で好んで受け入れられた)には多くの負の側面もあったはずである。PDCAサイクルを回す(あるいは、回すように見せかける)ために、無意味な労力が必要とされるのは避けなければならない。