- 作者: 牧野智和
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2015/04/09
- メディア: 単行本
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議論を先取りすれば、本書が企図するのは、自己啓発書による日常的振る舞いの切り分け方、格づけ方の観察を通して、何を行うことで自分にとって、あるいは他者に対して、自らの存在(アイデンティティ)が証明できることになるのか、その存在証明の区分線を浮き彫りにすることにある。どのような振る舞いが、どのように卓越的な、あるいは劣るものとしての位置づけを施され、また優劣の両極にはどのような人々が配置されるのか。今日における通俗的な差異化・卓越化(ディスタンクシオン)の一形式を、自己啓発書を素材にして明らかにすること―それが本書の目的である。
4-5頁
気になった点を3つ挙げてみる。
第1に、家庭や教育による長期間の習慣づけによる獲得(と、獲得されたものに対する「誤認」)を対象とした再生産論に対して、これから獲得可能であるというもの(それは獲得できることもあるようだけれども、往々にして獲得できないようにもみえる、いや、それはそもそも獲得可能な知識、技能、振る舞い、認知の仕方、センス…ではないのかもしれない)を対象とした本論がまさにその再生産論を枠組みとして用いることに成功しているのかという点である。再生産論の専門家に訊ねてみたい。第2に、自己啓発書がある階層を中心によく読まれているのに対して、しかし、その出自を問わずに新たに獲得する「感情的ハビトゥス」によって差異化・卓越化を促すという点である。どうして、あえて出自を不問にするのだろう―ご商売の理由以外に。たとえば、誰でも頑張れば成功できるというメリトクラシー(の幻想)と同じ論理になっているのだろうか。第3に、私の極めて狭い日々の生活の中での誤解を込めて言えば、自らを何かの手段によってコントロールする手法は、自己啓発書以外にはあまり盛り上がらない理由についてである。セラピー文化、カウンセリングの習慣、これらもまた何かの力を借りて自己をどうにかする手段であるものの、しかも、活字を読むという苦行(?)が不要であるにもかかわらずそれほど一般化されているようは見えない。もちろん、それらを称揚したいわけではないのだけれども、自己啓発書だけが身近にあるように思ってしまうのである。つまらない文化(宗教、教育)原因説以外に、どのような説明が可能だろうか。
そして、私が勝手に課された気分になる宿題が、大学教育(キャリア教育、初年次教育)における、いわばコントロール可能な自己に気付くという教育目標に関してである。自己を常にモニターし、操作するための様々な仕掛けが一部の大学で用意され始めているような印象を持っている。手帳を持とう、日記を書こう、ラーニング・ポートフォリオを作ろう、目標を書き出してそのために明日するべきことを考えよう、経験の「棚おろし」をしてみよう、毎日PDCAを回そう…、挙句には自己啓発書をそのまま参考図書にしていることもある…、そのことに疑問が呈されない状況をどのように理解すればよいのだろうか。そして、大抵の場合に「ありのままの自分でよい」「いまここ、を大切に」というのが対抗言説として出てくるのだけれども、それもまた自己のコントロールに回帰してしまう。もやもや。
追記:初出の雑誌『プレジデント』について、その読者層、その(法人向け)ご商売のあり方をどう考えましょうか。