「運命の皮肉、あるいはいい湯を」

団地の過去・現在について勉強する。なお、ここでの団地とは工業団地・農業団地のことではなく、住宅団地の意味である。
私(二宮)は0歳から10歳までを2つの団地で生活していた。最初は神奈川県横浜市内にある住宅・都市整備公団の総戸数約1,500戸、高層の建物が連なる団地(実際にそれぞれの建物は空中廊下でつなげられていて、外からは連なっているように見える)である。すべての住居が賃貸である。国鉄の最寄り駅までバスで約20分、私鉄の最寄り駅までバスで約10分のところにあった。団地の建設に合わせて新しく団地の敷地内に小学校が作られたものの、住居の広さは最小で1K、最大で2DKと、単身者または核家族が入居者として想定されていたはずである。私の記憶では、子どもの父親が都下城南地区または京浜工業地帯に勤務、母親が専業主婦または近隣でパートタームの仕事をしている核家族が多かった。友だちの母親が販売員として働いている横浜駅前岡田屋モアーズのアパレル店舗へ遊びに行ったこともあった。父親・母親の出身は地方が多く、夏休みや冬休みには北海道土産や九州土産などをよく貰っていた。片親が東京出身である私などはかなり珍しい存在だったようである。そして、そこでの記憶の多くがまさしく「総中流」意識なのである。自分たちよりも明らかに裕福な家庭も、貧しい家庭もこの団地ではあまり見かけなかった。木造アパートよりは家賃が高く、だからといって高所得者が住むにはやや寂しい賃貸住宅であるというのがその理由であったのだろう。団地内の小学校には団地外から通う児童もいて、その児童にはもう少し生活の余裕に幅があった。分譲の高級マンション、戦前から富豪が住んでいた地区の広い戸建ての住宅街に住む子どももいれば、木造アパートに住む級友もいた。しかし、小学校の圧倒的多数派は団地住民であり、学級は「均質」なものとして見えていたのだった。交通の便がよくないことから多くの家庭が自家用車(≒大衆車)を所有していて、近隣の地主がそのための広大な駐車場を整備していたのだった。自家用車に関連して文献との関わりで言えば、『総中流』本のコラム3「近代日本のオルガンがある風景/「総中流」社会のピアノがある風景」がおもしろい。当時、団地内外で様々な習い事が行われていて、その一つがピアノ、オルガンであった。スイミング、珠算、ソフトボール、サッカーに比べればその割合は低いものの、確かにピアノ、オルガンも一定の人気を集めていた。しかし、さすがにピアノを購入、設置できる家庭はかなり少なく、習い事として通うけれども自宅にピアノはないという子どももいた。そう、私のことである。なお、その後、複数の引っ越しを経てピアノは購入されることになり、現在ではしっかりと実家で謎の人形や欲しくない粗品を置く物置台としての役目をしっかりと果たしている。親世代にとっては憧れの習い事であったのだろうけれども、そのピアノの調律はもう10年以上行われていないはずである。さて、その団地住民の多くは家計の収入が上がることによって、いずれは転居することが何となく共有されるイメージであった。たとえば、核家族4名、そのうえにがんばってピアノを置こうとすれば2DKはいかにも手狭であった。私の場合はそれとは関係なく、父親の転勤によって転居することになった。さようなら、南ナントカ団地。
次に住んだのは兵庫県神戸市内にある、同じく住宅・都市整備公団の総戸数約400戸、5階建てエレベーターなしの建物が複数立つ賃貸住宅のみの団地である。地下鉄の駅まで、私の住居からは徒歩で約5分程度であった。間取りは2LDKまたは3DKであり、親戚が泊まりに来たとしても一部屋を提供できる大きさであった。子どもの父親は神戸市内か大阪市内まで通い、母親は専業主婦が多かった印象である。この400戸の団地内部だけであれば、やはり子どもの目から見ても「均質」である。しかし、前述の団地と違って、通うことになった小学校の学区には当該団地よりも大規模で高層の建物も多い市営住宅の団地と、やはり大規模な住宅・都市整備公団による低層の分譲集合住宅があった。文献『まなざし』本ではジャニーズ嵐主演の映画 ピカ☆☆ンチ LIFE IS HARD だから HAPPY 通常版 [DVD] が紹介されていて、そこでは「リッチ棟」、「貧乏棟」、「ちょっとヤバい第九棟」という区分によって階層・文化の違いが描かれているという。この団地へ引っ越しをして、友だち付き合いを始めた私はとてもショックを受けたのだった。市営住宅に住む級友は、かなり厳しい生活を強いられている。たとえば、「みんな」が持っていて話題の共通項となるような玩具、スポーツ用具を持っていない。身なりも異なっていた。他方、分譲住宅に住む級友は(今でも記憶に残っているのだが、父親が神戸大学の教授だったこともある)ほぼ全員が日能研などの進学塾に通っていて中学受験をするのが当然という状況であった。当時は進学塾へ入塾すること自体に選抜がある場合があって、塾へ入るための塾といった存在もあったのだった。今から思えば、かの小学校の教諭は大変だったと推測するのと同時に、豊かさの底辺に生きる―学校システムと弱者の再生産 の一連の北海道における団地の子ども・家族研究で指摘されているように、多様な子どもが集まっているほうがよいのかもしれない。私は再び父親の転勤により(西へ、西へ、と異動する)、この団地を比較的早く去ることになった。さようなら、山を削って作られた地下鉄なのに地上にある駅近くのO第三団地。
私にとって、団地は自らが経験してしまったゆえに研究対象にすることが難しく感じてしまうテーマである。そのため、この2つの書籍のような研究はとても有難い。自分の上記のような思い込み(?)にすぎないものを相対化することができる。では、何が相対化されたのか?それは、関心のある皆さまといずれ研究会で考えてみたいところである。