『現場の大学論―大学改革を超えて未来を拓くために』2022年7月刊行

 ナカニシヤ出版から『現場の大学論―大学改革を超えて未来を拓くために』が刊行されます。
honto.jp
 千葉大学の崎山直樹先生(西洋近現代史)、福井県立大学の渡邉浩一先生(哲学)、そして、二宮祐(高等教育論)が共編者です。崎山先生とは2011年の文部科学省委託調査「大学における教育研究活動の評価に関する調査研究(東京理科大学)」でご一緒して以来、また、渡邉先生とは反「大学改革」論:若手からの問題提起の執筆でお声掛けを頂戴して依頼、現代日本の大学に関する諸論点について問題意識の一端を共有してきました。執筆者の皆さまは当方によって紹介するまでもなく、大学における研究、教育、社会貢献についての現代的な課題に関して造詣が深い研究者です。
 書名の意味については次のとおり説明しています。

 ここで本書のタイトルについて簡単にふれておきたい。本書は当初、現在の大学改革をさまざまな角度から批判的に論じることを目的に企画され、バラエティに富む識者に執筆を依頼した。そのうえで実際にお寄せいただいた各章の原稿を読みながら、編者と出版社編集部で検討するなかで、キーワードとして浮かび上がってきたのが、あとがきでも詳しくふれるように「現場」という言葉であった。さまざまな事情によって最終段階で決定することとなった『現場の大学論―大学改革を超えて未来を拓くために』という本書のタイトルには2通りの意味が込められている。一つは終わりなき大学改革に晒され続けている「現場からの」大学論、そしてもう一つはその改革に疲弊する「現場のための」大学論である。本書および本書に収められている各章がこのタイトルにうまく合致するものとなっているか、そして本当に「未来を拓く」ためのものになっているかどうかについては、本書を読み終えた読者のみなさまのご判断に委ねたい。


まえがき pp.ⅴ~ⅵ

読者の皆さまによる判断を仰いだ部分につきましては、もし可能であれば何かしらの機会でご意見を頂戴いたしたく存じております。








 私は羽田貴史先生(高等教育論)インタビュー、吉田文先生(高等教育論)インタビューを上記2人の共編者およびナカニシヤ出版の米谷龍幸さんと一緒に行いました。また、第4章「若手研究者問題としての「新しい専門職」―誰がそれを担い、どのような困難に直面しているか」、あとがきを執筆しています。インタビューに応じてくださった2人の先生からは「大学改革」に対する高等教育論の立場からの理解について、忌憚なくお話し頂きました。ブログというこの場におきましても重ねて感謝申し上げます。お話しのなかには専門分野が同じである私にとってはお馴染みの既知のこと―「大学改革」以前から日本の大学が直面し続けてきた課題、日本における教養教育の特徴、教育学・教育史学・教育社会学・教育行政学における研究対象としての大学とその実践の場である大学との関係など―もありましたが、ぜひ読者の皆さまと共有したいと願っています。特に共編者の2人は大学のあり方について両先生に対して深く厳しい、仮に日常会話であれば躊躇われるであろうほどの問いを投げかけて、両先生からはその水準に相応しい深く厳しいお答えを頂きました。なお、私の浅く緩い問いに対しては羽田先生から物足りないものとしてざっくりと斬られています。また、第4章では科学研究費補助金の研究課題として進めた「新しい専門職」についての考察を書きました。それほど人数が多いというわけでもないのですが、若手研究者の一部は研究者でもなく事務職員でもない、曖昧な性格をもつ職を大学で得ることがあります。そして、その不安定な職こそが「大学改革」を推進することがあります。そうした状況に対する着目はこれまであまり行われてこなかったでしょう。私なりにその「意図せざる結果」のような状況について考えてみました。考察の対象とした質問紙調査へご回答頂きました「新しい専門職」の皆さまにも感謝申し上げます。
 

建築空間に対する社会学による分析

著者からお送り頂きました。ありがとうございます。


 本書の課題は次のように提起されている。

本書では、2で整理した先行研究の着眼点と示唆をもっとも包括的に汲み取ることができる理論枠組として中期フーコーの権力論を参照し、建築をその空間構成や物質の配置によって、人々の行為や心理に何らかの継続的作用を与え、その結果として何らかの主体性を構成する技術の一つと位置づけたうえで、それが実際どのように人々に対する作用を想定して設計されてきたのか、またそのことで私たち人間のどのような主体性が構造化ないしは喚起されようとしているのか、そしてそれは建築に関連するどのような諸条件との関係性のなかで可能になっていることなのか、ということをいくつかの事例から考えていきたい。
31頁

 その課題を解くために著者が用いた手法は「ぜんぶよむ」である。これは自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究でも行われていた、ある対象について「何が語られてきたのか」包括的に調べるものである。たとえば、第二章「アクティビティを喚起する学校建築」では、戦後の学校建築に関する書籍、博士論文など294点、建築雑誌96件、その他の学校建築に関する先行研究、そして、建築家の著作などを、第三章「オフィスデザインにおけるヒト・モノ・コトの配置」では同様に書籍138冊、建築専門雑誌、オフィス専門誌が読み込まれている。「ぜんぶよむ」という作業を行ったうえで上記の枠組に照らし合わせて解釈を施すという研究方法は、専門分野の異なる当方にとっても大変参考になるものである。そして、おそらく本書の特徴は、人びとは新しいお洒落な建物によって、ありのままに振舞うことができるように感じつつも、実はそうとは気付くことができないまま合理的に、柔らかく、ローコストで管理されているのだといったような簡単な結論にはけっして陥らないところである。たとえば、かつての大学での教育学などの講義では、日本における学校の教室はなるべく費用をかけずに多くの児童、生徒を1か所に集めて管理することが可能になっていると教えられたかもしれない。しかし、イマドキの学校は教室間の壁がない、あえて曲線の構造物にしてある、隠れ家的謎スポットがいくつもあるといった特徴をもっていることがある。それに対して、実はそれは新たな管理手法にすぎないのだと主張することは簡単なのだけれども、そうした解釈では収まらない何かがあることを示唆するのである。
 「ぜんぶよむ」という手法のために、書かれたきたことについては明確に整理が行われている。他方で、その手法の制約ゆえに児童、生徒がお洒落な学校でどう過ごしどのように感じていたのか、ビジネスパーソンがかっこよく居心地のよさそうなオフィスでどう過ごしどのように感じていたのかについては、残された課題となっているであろう。このことは、先ほど「専門分野の異なる当方」と書いてしまった私に対しても跳ね返ってくる課題である。というのも、高等教育においても「大学改革」の文脈において同じようなアクティブでクリエイティブな空間の構築が意図されてきたからである。個性的なデザインの「居場所」に学生が集まって談笑している写真は大学の宣伝広告でよく用いられるようになっている(なお、一時期よく宣伝に使われ人気にもなった可動式勾玉型の学生作業デスクは高額であるために、導入済みの大学を見るたびにため息が出てしまうこともある)。同時に、学生はみんながいつも一緒にいればいいというわけでもなく「ぼっちカウンター」のような一人で集中できる場所の重要性も認識され、紹介されることもある。そうした場所で、設計者による意図どおりに学生が動き、ものを考えているのか、あるいは、その意図に外れた何かが生じているのかまだよくわからないところである。高等教育の研究課題として放置されてきたともいえる。
 ここまで本来であれば言及するべきであるのに、あえて触れていないものがアクターネットワーク理論である。本書では当然その検討は行われているものの、当方がその理解を不十分なままにしてきたためである。アクターネットワーク理論入門―「モノ」であふれる世界の記述法などの文献を勉強した後で再読する必要があるのだろう。

授業ってつまらないよね

 著者からお送り頂きました。感謝いたします。
 タイトルは刺激的です。そもそも学校とは何であるのか、そして、何ではないのかについて考えてみたい場合の入門書となっています。

この本では、おそらく一般の皆さんが考えたこともないこと、知らなかったことがいろいろと書かれていると思います。生徒や保護者として見る教育や学校と、専門的な学問である教育学の視点から見る教育や学校とは、少し違っているからです。だから、教育や学校について、「知ってる/わかっている」以外のものを見つけていただく読み方をしていただけば、きっと面白い気づきがあると思います。
13頁

 私(二宮)は公開講座などでお話しをする機会があります。そこで聴衆の皆さんによって「知られている/わかられている」であろうことに言及すると、とても嬉しそうなお顔を拝見することがあります。ご自身の認識が研究者によって追認されたことになるからでしょう。しかし、せっかくの機会なのですから「知ってる/わかっている」以外のことに着目できると良いのかもしれません。たとえば、この本の第2章「学校の目的と機能」では、学校についてのあれこれの法律が紹介されているのと同時に、教育を対象として研究を進めることでそうした文章で書かれたきまりごとだけではみえないことがみえてくることが説明されています。私は児童、生徒、学生が「「まずいこと」を学んでしまう」(73頁)という観点を以前から興味深く捉えてきました。皆さんも学校の空間や時間の中で、教科書に書いているわけでもなく教員から教えられたわけでもないことを半ば「勝手に」学習したことがあるはずです。さて、それはどんなことでしょうか。
 そして、そもそもこの本のタイトル自体がとても学問的であるのもおもしろいです。学校の「現場」では先生方の創意工夫によって楽しく、わかりやすい授業が行われていることもあるでしょう。それはそれとして素晴らしいことです。たとえば、文部科学省教育委員会、個々の学校が「授業なんてそもそも退屈なものなんですよ」なんて絶対に言わないし、言えないはずです(塾や予備校などはご商売のためにそうした宣伝をするかもしれません)。しかしながら、学問のレンズを通してみると退屈にしかなりようがない理由がみえてくることになります。さらに教育学では、学校はその退屈さを乗り越えるための営為の特徴や、その乗り越え方が及ぼす良い影響・悪い影響などについても研究されてきました。文中で引用されている本や論文が次に読むべきものになるかもしれません。

前垂れとグルントリッヒ

 著者よりお送り頂きました。ありがとうございます。
 博士論文を加筆・修正したものであり、とても多くの論点が含まれている貴重な研究である。考察の主な対象は副題に示されているとおり「秘書教育プログラムの成立と変容」という、いわば「局所」的な教育の内容や方法である。しかし、教育と社会との関係についての戦後史を考えるための長い射程をもっていることがこの研究の特徴であるだろう。経営学的な人材養成教育だから、短期大学教育だからなどの理由で読むのを避けてはいけない。それは次の2つの理由によるためである。
 第1に、社会学であればこの書籍をジェンダー研究として扱うことができるからである。たとえば、著者が短期大学発展期(1981~1995年)と捉える時期は次のように説明される。

 このような学歴観と性別役割分業観が残る中、「発展期」の人材育成目標は、卒業直後の「(直近の)見える目標」として、就職率などに示される職業への移行が設定されていた。そのため、職業教育の内容も就職に有利な内容を設定してはいるが、男性同様に長期就業や昇進・昇格を期待した目標までは設定されていなかった。短期の職業生活の先にある本来の目標としての結婚や出産・育児などの家庭生活を意識した「(将来の)隠れた目標」が設定されていたのである。卒業後に一度は労働市場に参入するが、それはあくまでも通過点としての職業生活であり、その先にある家庭生活こそが短期大学が設定していた教育目標であった。
 「学校から職業への移行」を円滑にするための職業教育として、在学中には就職することを奨励した教育目標は「見える目標」として「職業」を掲げ、他方では常に妻や母の役割としての「家庭」という「(将来の)隠れた目標」を想定した教育が二重規範として女子の短期大学には求められていたのである。
96-97頁

良妻賢母規範が残りつつ、20代前半の数年間だけー巷間言われていたことはクリスマス・イブが12月24日であることから、24歳まで―職を得て働くための目標が設定されているのである。著者が示す短期大学変容期(1996~2010年)には、国や自治体は女性の就業継続を支援する政策を進めるようになり、秘書科や秘書専攻という名称はキャリアやビジネスへ変更されるようになることもあった。しかし、日本の秘書は専門職として確立しているわけではなく、そもそも一般の従業員が何かしらの専門職であるという概念も弱く、欧米のそれとは異なっている。そのうえ、依然としてジェンダーに関する問題をもっていたことが指摘される。

 短期大学が指定する「秘書士」指定のテキストや秘書技能検定の内容において最も重視されているのが、秘書としての心構えを示す「上司の陰の力になる」というコンセプトである。(略)秘書教育プログラムの資質教育では、家庭内の性別役割分業としての内助の功に通じる補佐的な要素を、ケーススタディによって学んでいくのである。
156-157頁

 秘書教育プログラムにおいても同様のロジックが考えられる。家庭のしつけ(私的領域)が、学校教育(公的領域)のプログラムとして機能することで、学生への誘因につながっていたことが考えられる。それが女性のキャリア目標が結婚後の家庭から職場へと変化したことで、マナーに求められる機能も家庭のしつけ(私的領域)から職場の規範(公的領域)へと変化してきたのである。
 マナーや接遇を身につけることは、秘書教育プログラムにおいて「ワンランク上」の女性事務職を演出する要素であった。マナーの実技内容を見ると、対人能力として、企業の上層部との応対を意識した中流階級以上の文化資本形成を重視していることがわかる。
158-159頁

これらの言及は、私(二宮)の経験に強く突き刺さるものである。というのも、学部新卒で入社した企業では、学部卒・男性は多少「やんちゃ」な服装、姿勢・態度でも咎められることはなく、むしろ「男らしさ」規範として推奨される印象さえあった。その一方で、短期大学卒(または専門学校卒)・女性は、在学中に受けたマナー教育、接遇教育を入社後すぐに発揮していた。「しっかりもの」の良妻賢母が夫、子をバックオフィスで支えるという構図が企業内に出現していた。あのときの私の経験は、こうした教育やトランジションのメカニズムに基づくものであったのだろう。
 第2に、公教育は何を行うべきであるのか、という原理的な問いについて考えることにつながるためである。冒頭に紹介するべきであったかもしれないが、本書の目的は次のように提示されている。

 学術の界に職業教育プログラムが導入されることでどのような葛藤が生じるのか。
1頁

短期大学の制度化当初、その後に数を大幅に減らすことになる男性にとっては短期の職業教育機関である一方で、女性にとっては高度な「花嫁学校」という印象がもたれていた(男性については終戦による技術者・技能者不足と学制改革が引き起こしたトランジションのモデルの再構築の時期である)。短期大学でより高い教養を身に付けるのである。しかし、短期大学は保育士、教諭、栄養士などの「女性向き」と認識されていた、家事や育児につながるような仕事に就くための公的資格を得る教育課程を提供するようになる。さらに、本書で明らかにされるように、それらの専門職とは異なる秘書教育プログラムを備えるようになる。ここで生じるコンフリクトは現代日本の公教育の一部にもみられるものである。高等教育(中等後教育)であれば、専門職大学専門職短期大学に対して一部の知識人が否定的見解を示していたように、教育機関における職業に「役立つ」知識、技術の提供は国・地域、階級・階層によっては公教育観を揺さぶるものである。しかしながら、だからこそ教育機関外部からの要請にも応じるかたちで「花嫁」の教養、「女性向き」専門職、秘書教育、そして、いわゆるジェネリック・スキル重視と変容してきた短期大学に着目して、その意味を問うことは有意義である。
 高等教育論の研究上は、秘書士や秘書検定などの(民間)資格をめぐる教育機関と外部諸団体とのポリティクス、実務家教員の参入の過程とその後の処遇(これは私の実務家教員研究にもつながっている課題である)、マナー・接遇に関する知識の「学問」化の困難などについての論考が新しい領域を拓いたといえるだろう。これらもまた、秘書を別の仕事に置き換えても成立する課題であり重要である。そして、ここから先は書かれていないことであるが、現在進行中のジェネリック・スキルもまたジェンダー論の観点で分析が可能であるかもしれず、ジェネリック・スキルの獲得は比較的容易な「見える目標」でしかなく、実は「(将来の)隠れた目標」を想定した教育が行われているかもしれない。




追記:著者には以前から相談に応じて頂く機会があり、そのことについても感謝している。秘書教育は経営学の「人材マネジメント」などの分野でも比較的手薄な分野であり、国立(くにたち)で著者に初めてお会いするまでまったく理解できていなかった。書籍の刊行、おめでとうございます。

日本郵便「Webレター」利用の記録

 調査への協力を依頼する際に郵便を利用することがある。大学院でトレーニングを受けていた頃から近年まで、(1)封筒と切手を購入する、(2)差出研究グループの責任者氏名などや連絡先が書かれたゴム印を作成する、(3)送付物を自前のコピー機で用意したり印刷会社へオフセット印刷を発注したりする、(4)PCで宛て名ラベルを作成してプリントアウトする、(4)切手と宛て名ラベルを封筒へ貼付したうえで封筒の反対側下部に黒インクを付けたゴム印を押す、(5)封筒へ送付物を入れて封をする、(6)郵便局へ持参する、(7)換金可能である切手を厳重に管理する(仮に120円切手5千枚として60万円相当の現物の管理が必要になる)、という作業を「研究」として行っていた。予算の都合のために、すべてまたは一部の工程を請け負う印刷会社を利用することは難しい。その代わりに学部生のアルバイトを雇用して、作業のお手伝いをして頂くこともあった。切手については料金別納にする方法もあるものの、それでも郵便局へ封筒を持ち込む作業は削減できない。
 今年、とある調査において、従来の作業を日本郵便が提供している「Webレター―案内状、通知書、請求書、DM等の発送・郵便代行」へ置き換えてみた。


www.post.japanpost.jp


 その結果、コストが下がることになった。たとえば、4ページの送付物を5千通発送する場合、これまではネット印刷会社でのオフセット白黒印刷3万円、切手60万円、封筒・ゴム印・人件費(学部生バイト代)など諸経費10万円、合計73万円程度が必要であり、そのうえ作業のために教員や大学院生の時間を使っていた。他方、日本郵便の「Webレター」では、白黒4ページの内容を送付するのに1件134円、5千通で合計57万円である。金銭面での節約以上に、上記(1)~(7)の作業がすべてなくなったという利点が大きかったのである。ただし、必ずしもメリットばかりではなかった。「Webレター」に封入される送付物は、日本郵便のウェブサイトへアップロードされたPDFファイル、または、当該ウェブサイトでPDFに変換されたMS-Wordファイルである。両方のパターンを試したものの、以下の写真中の「拝啓 向春の候…」に見られるようにフォントが荒い。

また、ないものねだりではあるものの、穴あき封筒のウラ面に掲示される「Webレター」についての説明がもう1~2行ほど詳細であれば、受取人の理解も捗るかもしれない。オモテ面の切手欄には「コンピュータ郵便」と書かれているために混乱を招くのである。