学部1年生のときに経験したこと

大学1年生のときの学部必修講義「社会科学概論第一」の記憶である。
通年科目、今となっては珍しい1年間で4単位という講義である(なお、小平キャンパスでは「単位」という名称の単位ではなく、「座」という名称が使われていた―単位数にかかわらず、1講義イコール1座であり、21座を取得するとクニタチへ「進学」、19~20座を取得すると「仮進」、18座以下の場合は「残留」「コダ残」と称されていた)。同名の必修講義は2コマ開講されていて、1コマは学生を強く「煽る」ことで有名なインブリーディングの名物教官(当時は「教官」である、全国の附属学校の先生も同様に「教官」だった)、もう1コマは世界的に活躍している有名な教官が担当していた。他の必修講義の時間割の制約によって、どちらを履修するかが自動的に決まることになっていて、私は後者の教官による講義を履修していた。小平で2番目に大きい、200人くらいが収容できる教室に、社会学部1年生の約半分と、他学部の1、2年生(どの学部にも他学部の講義を2座履修するという要件があったため)合わせて350人ほどが集まっていた。200人の教室に350人?学生からは椅子に座ることができないという苦情の声があげられていたものの、当時は大学としては特に問題視されていなかった。教室に入るのが遅れてしまった学生は、5人がけの固定椅子に7人で座る、最後部で立つ、固定椅子の間にある通路に雑誌や新聞を座布団代わりにして座り込む、廊下から窓を介して教室内を覗き込む、このいずれかを選ばなければならなかった。しかし、そんな問題は2、3ヶ月で解消する。すなわち、5月、6月、7月と時間が経過するにつれて、出席者が減っていくためである。秋には出席者全員が座れるようになっていたのだった。現代では考えられないことかもしれない。
さて、講義はとても難しい内容であった。社会科学とはいかなるものか、その中で社会学とはいかなるものかというテーマについて、欧州と米国におけるアカデミズムの歴史的な経緯をふまえて説明していくというものである。1年生の私にとってはまったくちんぷんかんぷん―おそらく今聞いても難しく感じるだろう―で、夏学期の教場試験(持ち込み不可)の評価は合格だけれども最低のC、冬学期の教場試験(やはり持ち込み不可)も同じくCであり、最終的な成績評価もCであった。業界内ではベストセラーとして知られていた 『知の技法: 東京大学教養学部「基礎演習」テキスト』 が購入必須の教科書として指定されていたものの、講義中にその教科書に対して言及があるわけではなく、教場試験前になんとなく読んではみたものの、私はそれを活かすことができなかった。いまだに、どのように学習すればB評価やA評価を得られたのかわかっていないという始末である。
ところで、もっとも印象深く記憶に残っていることは、教官とある学生との対話である。あまりにも難解な講義のためか、教室にいる学生の反応は必ずしも好ましいものではなかったはずである。アクティブ・ラーニングという言葉もなかった頃であったものも、ある日教官が学生に対して発言を促した。「どんなことでも、些細なことでもいいから何か質問してください」と言うのである。1分、2分、教室は重い沈黙でいっぱいになる。そのとき、ある他学部2年生の学生が挙手をした。学内に数名いた、有名人の一人である。他の大学のことを知らないけれども、そのときにはそれぞれ何らかの理由で学内限定の有名人学生というのがいたのである。後日人づてに聞いた噂では、その学生は単位取得を目指していたわけではなく興味本位で講義に「もぐって」いたそうである。教官の承諾を得て、その学生はこう言った。「先生は講義中に何度も何度も『ある種の』って言うけど、『ある種の』って結局なんなんですかあ?」、私も含めて周囲の学生は呆気にとられた。講義内容には関係のない、「ある種の」揶揄であろう。教官は返事に困ってしまったようであった。今となっては私などは「口癖です、特に意味はないです」という回答でよかったと考えてしまうもの、真面目な教官はそうは言わずに、なんとか言葉を探していた。思い起こせばその質問そのものに対してというよりも、文脈や「空気」を読むことなく自由に発言してよいのだということに気付かされたことについて、私は驚いていたのだろう。「ある種」という口癖に対する食い下がりは確かに単なる嫌味でしかなかったのかもしれず、それをそのまま真似しようとは思わない。他方、講義中であれなんであれ、他人の気持ちを過剰におしはかることなく、とにかく自分で稚拙であっても考えて、それを声や文章にすることが重要であることを学んだのであった。
講義の内容ではなく、こんな細かいコミュニケーションのことこそを覚えているという話しであった。