高等教育研究者に対する問題提起

広田照幸、2019、『大学論を組み替える―新たな議論のために―』名古屋大学出版会
www.unp.or.jp
https://www.amazon.co.jp/dp/4815809674
著者からお送り頂きました。ありがとうございます。
教育に関する社会史や、現代の初等中等教育や生徒・児童の諸「問題」に関する言説を対象とした研究を続けてきた著者が、教育の専門家として「大学改革」への貢献を期待されて対応しつつ、しかし同時に、そこに生じている様々な矛盾を無視できるわけでもないという状況において、7、8年間かけて書かれてきた論考をまとめたものである。
冒頭では高等教育研究者に対して苦言が呈されている。

大学について考えてみようと思って文献を探すと、これまた一九九〇年代半ばころから爆発的な増加が始まり、近年は山のように出されていることがわかる。しかし、そこには何かが足りないような思いを感じてきた。
データベースで文献を探していくと、主に三種類の文献があることがわかる。
(略)
第三に、高等教育研究者による研究論文や研究書である。これは、近年の政策動向に注意を払いながら書かれたもので、次の三種類があるように思われる。一つ目は、海外での高等教育改革の動向や海外の高等教育の実態を調査して、そこから日本の大学改革への示唆を得ようとするものである。二つ目は、日本の大学を対象にした調査を行い、改革の必要性を主張したり、改革の成果(あるいはその失敗)を実証的に明らかにしたりしようとするものである。三つ目は、政策の決定過程や実施過程を実証的に考察して、どういうメカニズムや論理が存在しているのかを探ろうとする研究である。
本来ならば、この高等教育研究者による研究が大学改革の流れ自体を学問的な吟味にかけてくれるはずなのだろうが、残念ながらそういう視野をもった研究は必ずしも多くない。
(略)
結局のところ、実証研究も山ほどなされているし、現場での実践的努力もおびただしく積み上げられてきている。では何が足りないのか。私に言わせると、「大学とは何か/大学は何をなすべきか/大学は何をなすべきではないのか」といった点をめぐる大学論が足りないのではないかと思う。大学に関する理想や規範をめぐる議論である。
pp.2-3

とはいえ、こうした指摘は珍しいものではない。今年2019年8月に刊行された 教育研究の新章 (教育学年報11) においても、「『学』を自称して『高等教育学』などというのは、おこがましいのではないですか」(p.439)、「研究の下敷きにどういう大学論があるのかということです。たとえば、人間が真理を探究する、文化を創るという営みがあり、大学が歴史的にその重要な役割を果たしてきた。そういう大学論の延長上の話は、東大のメンバーではなく、京大の松下さんとか田中さんの方がなされているのでは」(p.441)というように、高等教育研究は厳しく批判されている。しかし、高等教育という研究/実践の対象への、教育学(人文系)と教育社会学の違い、教育学(同)と教育工学・教育心理学との違い、高等教育(中等後教育)なのか大学教育なのかの違い、東日本と西日本の違い(粗雑な区分だ…―他方、FD西高東低論というのがかつてあったので、どこかで何かが捩れているのかもしれない)がある、つまり、アプローチによって関心や目的が異なるので、「あなた方の研究には○○が不足している」という批判はとても重要ではありつつも、応答できるかどうか難しいところである。さらに、不足されているという大学論には、すでに、たとえば教育史、文化史に沿うような一定の回答が用意されていることだろうから、それとは異なるものを呈示しても拒絶されてしまうのではないか、とも不安になるのである。
私が最も面白いと思った*1のは第5章「第一線大学教員はなぜ改革を拒むのか―分野別参照基準の活用について」である。4節「同僚との話し合いの困難さ」(pp.143-144)において、教育プログラムを見直そうとするときの、それを阻害する組織文化の要因が3点に整理されている。第1は、教員が細分化された専門性を持っているがゆえに、かえってその分野全体の教育のねらいについては理解が不足しているというものである。第2は、第1に関連して、その細かい割拠性が教員間の意思疎通を妨げるというものである。そして、第3は次のようなものである。

第三に、多くの分野の大学教員には、学生の教育に関する理論や語彙が不足している。大学教員の多くは研究のプロであり、その研究の専門性をふまえて教育を行っている。しかし、教育を行うことと、教育についての理論や語彙を駆使して自らの実践を言語化することとの間には大きな距離がある。自分が行っている教育の意義を分野外の人に対して説明するためには、研究分野の専門用語とは異なるタイプの言説的で反省的な資源―それを語る語彙や複数の語彙を使って命題に組み立てる理論―が必要である。自分が担当する分野に関して具体的にどういう知識を修得させるべきかについては、ほとんどの教員は実に詳細に説明することはできるけれども、普段の授業をどういうねらいややり方で展開しているのかについて、教育(学)的に説明する理論や語彙を欠いているのである。歴史学分野の参照基準作成にあたった井野瀬久美恵(二〇一一、一八頁)は、「歴史学を専攻した学生にはどんな能力や知識が身につき、何ができると期待できるのか」といった主題を、「これまであまり深く考えたこともなかった難題」と表現している。
p.144

近年では、さまざまな場面で「学生が何をできるようになるか」が問われるようになりつつあり、そこで教員が戸惑うということがある。ここに書かれているように、従前はあまり考えたことのなかったテーマなのであろう。それに対する応答の一つに「『そもそも』大学の講義は、学生の習熟の内容などに関わるなんてことはしない」といったものもあるだろう。しかし、そうだとしても、その主張を根拠付ける語彙、たとえば評価に関する語彙は必要になるのだろう。また、この箇所を読んで、私の仕事は大学内外で分野を超えて通用する教育に関する語彙を増やしていくという意味でもあると理解したのであった。文系、理系の様々な学部、学科にお邪魔してお話しを伺う際、確かにそうした語彙に依拠して解釈を行って、応答をしていることに気付かされるのである。
なお、参照基準については、日本学術会議のウェブサイトをご覧いただきたい。

*1:実は第4章の日本大学文理学部教育学科における「カリキュラムの体系化」事例も面白い。参照基準を「共通の敵」としてボトムアップの改革が可能であるという。