シグナリングだいすき

大学なんか行っても意味はない?――教育反対の経済学

大学なんか行っても意味はない?――教育反対の経済学

シグナリング・モデルによって学業達成と職業・収入との結びつきについて、ほとんどのことが説明できるということを丁寧に説明している。たとえば、残り1単位で学士号が取得できるのだけれども、交通事故に遭って試験を受けられなかった場合、もう1学期登録して卒業証書を入手するべきか、諦めて中退するべきか、という問いが提起される(p.135)。人的資本モデルが妥当ならば獲得したスキルが減るわけでもないので中退が正解、シグナリング・モデルならば「シープスキン効果」があるので授業料を余計に払ってでも卒業するのが正解、さて、どちらが収入を高めることにとって妥当だろうかというものである。筆者は人的資本論ももちろん間違いではないのだが、説明できる部分がかなり少ないとして、シグナリングの効果の高さを強調するのである。
そして、職業教育に関して興味深い見解を示している。職業教育は「利己的なリターン」(=学習者にとってのリターン)、「社会的なリターン」ともに有益であるとする。たとえシグナリングであっても、高校職業科出身者は中退者よりも高く評価されるし(つまり、その際のシグナルはマイナスや悪いのなく、弱いのである)、そうでなくても、「どんな授業も学生を何らかの仕事に備えさせる」(p.320)―大工、自動車整備士、配管工など―からであるという。同時に、価値財としての教育という観点での「教育は魂を涵養する」という価値観に対しては、それは望ましい理想であると主張しつつも、実際の効果はなかなか見えないともいう。文学や音楽、シティズンシップなどの価値の伝達に関して教育は無力であるとして、教養教育に対して懐疑的な見方を呈示している。
こうした検討から導き出される「賢い学生のための実践的指針」(p.222)として、

  • あなたがよほどの劣等生でない(または定職に就くことを望まない)限り、高校には行け。
  • あなたが優秀な学生であるか特殊なケースに限り、大学に行け。
  • よほどの条件がそろわない限り、修士号は取るな。


が挙げられている。大学へは優秀でなければ進学するな、と!
さて、この筆者の主張に対して、どのような反論が可能だろうか。そして、どうして日本においても、人的資本ではなくシグナリングトランジションの解釈枠組みとして強く好まれてきたのだろうか。考えてみるととてもおもしろい。