教育社会学会公開研究会参加―アクティブラーニングの諸相

http://www.gakkai.ne.jp/jses/2018/10/19111635.php

日本教社会学会第70回大会課題研究Ⅲ「アクティブラーニングの教育社会学」公開研究会(11月6日)に参加してきた。主として高等教育におけるアクティブラーニングがテーマとなっていて、初中等教育におけるそれは検討の対象外となっている。
以前から気になっていたことは、登壇者からも紹介があったようにアクティブラーニング形式の授業は昭和後期や平成に新設された私大でよく導入されていて、それに比べれば国公立大や戦前に創立された大規模私大ではあまり導入されていないということに関連するテーマである。アクティブラーニングは(この言葉は意味が曖昧なので好みではないのだけれども、わかりやすいと評価する方もいるのであえて使うと)「上から」導入が求められているのだけれども、その「上」が導入を特に期待するような伝統ある選抜性の高い大規模私大、とりわけ社会科学系で大教室での「講義」が多いような大学ではあまり導入されていない。補助金によって政策的な誘導が図られているにもかかわらずである。他方で、新興の私大では、その学部編成が看護・保健、教育に偏っているということを差し引いたとしても、アクティブラーニングがよく導入されている。その場合、当然「上から」の誘導に乗ったという場合もあるけれども、同時に、「下から」の対策(もちろん、「下から」という言葉の意味も曖昧だ)であったということも指摘できる。登壇者の複数から紹介があったことだけれども、選抜性の高くない私大では授業を運営するためにどうしてもアクティブラーニング(あるいは、それに類するものであって、すなわち、いわゆる座学のみの講義+教場期末試験による成績評価ではない種類の授業)が必要であるというのだ。「現場」の必要性に関する認識によって、すなわち、「下から」導入される―座学+試験を苦手とする学生への対応―ということがある。インターネット上では選抜性の高い大学に勤務する学者による「上から」指示されるという理由や、その表面的な見た目が麗しいだけで内容が空疎であると評価するという理由としたアクティブラーニングを否定する意見を見ることができるものの、その視野からは見ることのできない「下から」の切羽詰った導入という事例もあることを知っておきたい。ただし、このように書くとアクティブラーニングは選抜性の高い大学では不要であると評価される可能性もあるが、それは誤解である。ここからは不要かどうかの判断をすることはできない。
さて、教育社会学の理論の中には、アクティブラーニングとして想定されるような授業における到達度は、出身家庭の背景を受けやすいというものがある。これは幼稚園、小・中学校の事例でよく言われることであるのだけれども大学ではどうだろうか。学習の時間や空間の縛りが緩く、何が適切なアウトプットであるかについての評価基準が曖昧であったりすると、家庭の資源に恵まれない学習者にとっては戸惑いが大きく、十分な到達をすることができないというものである。他方、家庭の資源に恵まれた学習者にとって、それは自ら創意工夫を繰り出す余地の大きい、やり甲斐のあるおもしろい学習であって、その到達度も高くなることが見込まれる。この理論が仮に正しいとすると奇妙なことになる。どうして、資源に恵まれない学習者が相対的には多い可能性のある大学においてこそアクティブラーニングが導入されているのだろうか。「下から」の導入というのは、いったいどのような意味なのだろうか。このように考えていたところ、登壇者の一人がフレーミング(枠付け、F)に着目したほうがよいのかもしれないという結論を述べられて、納得したのである。同じアクティブラーニングという言葉でまとめられる授業であっても、確かにフレーミング(枠付け、F)が内的(i)にも外的(e)にも強ければ学習者が戸惑う要因が少なくなるし、弱ければ多くなる。そこで、仮説段階でしかないわけだけれども、少なくとも「下から」の導入であったアクティブラーニングについてはフレーミング(枠付け、F)が強いということになるだろうか。そうだとすると、アクティブラーニングという名前が付けられている授業のイメージは少し変わるかもしれない。他者とのコミュニケーションが苦手、不得意である学習者にとってアクティブラーニングは不利益をもたらすという通説があるけれども、それはおそらくフレーミング(枠付け、F)が弱い場合である。フレーミング(枠付け、F)が強い場合はどうなるだろうか。なお、筆者の「現場」の感覚としては、苦手なこと、不得意なことでも工夫をしつつも行わなければならない学習はあるし(それは座学、筆記試験でも同じことである)、卒業後の人生を見据えてそうしたことがらの練習をすることも大事である。
ところで、2012年のいわゆる質的転換答申の力点はアクティブラーニングなどではなく学習時間であるという、登壇者複数の主張には全面的に賛成している。つまり、アクティブラーニングを導入しようということではなく、学習時間が少なすぎるのでどうにかしよう、という趣旨である。しかし、アクティブラーニングと違って学習時間については知識の蓄積が必要となる医学系、理工系、または、資格取得系以外の分野では「下から」導入する動機が生じないためにあまり改善されない。
また、筆者としてはアクティブラーニングが空疎であるという否定論について考えてみたかった。実のところ、アクティブラーニングが空疎というわけではなく、パフォーマンス・モデルの第三のモードである一般的スキル・モードに結びつくことで空疎になるように思えるのである。パフォーマンス・モデルであるにもかかわらず伝達される知識に実体がなく、むしろ、コンペタンス・モデルであるように見えてしまう。卑近な例で言えば「グループワークを通じて社会人基礎力を身に付ける」という課題である。

あの一般的スキル・モードが、「労働」・「生活」経験についての〈教育〉的基礎として、どのように構築され定着するかという問題に立ち戻ってみたい。この一般的スキル・モードは、単に獲得の〈教育〉手順が経済的な(経済に基盤をおいている)ばかりでなく、「労働」・「生活」の新しい考え、つまり「短期変動主義」とでも呼べるような考えに基づいている。これは、スキル・課題・労働分野の発展・消滅・再編(の変動過程)を持続的に受け止めて行こうというものである。つまり(変動短期社会の)生活経験は、未来とそこでの個人の位置についての安定した予測に基盤を置くことはできない。こうした環境の下では、活力ある新たな能力が発達されなければならない。それが「訓練可能性」であり、それは〈教育〉が次々に改革されてもそこから成果を得ることができる能力、「労働」・「生活」の新たな要請にうまく対処する能力を意味することになる。こうした〈教育〉の改革は、特定のパフォーマンスよりも柔軟で移行可能な潜在能力を実現することが期待される一般的スキル・モードの獲得を基盤とするだろう。だから、一般的スキル・モードは、その深層構造を「訓練可能性」という概念の中に持っている。
バジル・バーンスティン『〈教育〉の社会学理論:象徴統制、〈教育〉の言説、アイデンティティ』訳書、124-125頁

このモデルではない場合のアクティブラーニングについて、どれくらい空疎否定論が妥当といえるようになるだろうか。