卓越化と大学

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

  • 作者: トニーベネット,マイクサヴィジ,エリザベスシルヴァ,アランワード,モデストガヨ=カル,Tony Bennett,Mike Savage,Elizabeth Silva,Alan Warde,Modesto Gayo‐Cal,磯直樹,香川めい,森田次朗,知念渉,相澤真一
  • 出版社/メーカー: 青弓社
  • 発売日: 2017/10/26
  • メディア: 単行本
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訳者のお一人からお送り頂きました。ありがとうございました。
ブルデューについては学部生の頃に当時の訳書数冊をひとりで読もうとして挫折していまして、院生の頃にゼミでバジル・バーンスティンを勉強するのと合わせて読んだ経験があるものの、まだまだ勉強不足なのでとても感謝しています。高等教育論においてもブルデューから学ぶことはたくさんあります。また、あらかじめ申し上げておきますと、「見つけられない図表」は225-232頁に掲載されています。




さて、本書では文化資本の種類やその働きを現代英国の状況に即して再検討することを試みている。

われわれは文化資本の構成要素を識別し区別すること、そして、いままでにない新しい状況で文化資本の有効性を考察することが重要だと考えている。これがとりわけ重要だと考えられるのは、ブルデューの著作や資料のなかに資本のタイプやそれらの互いの関係性に関する明確で体系的な説明が残されていないからでもある。彼は繰り返し経済資本、文化資本社会関係資本、そして象徴資本を区別している。また、その精確な由来や内容を突き止めることは困難であるものの、ある論考のなかでは、文化資本を三つの下位タイプ―制度化・身体化・客体化―に分類している。
(略)
後期の研究では、これらに加え、社会集団によっては異なる形態の文化資本が動員されている可能性を認識する必要性が提起されている。晩年の研究の一つのなかでブルデューは「技術資本」という概念を導入している。
(略)
さらに、特定の下位文化の成員の間で限定的に流通する資産と呼べる下位文化資本がある。この下位文化資本には、特定の年齢集団の観点から、あるいは特定のエスニック・コミュニティ固有な文化的ノウハウやありふれた知識の観点から、定義されうるものである。
(略)
これらは様々な形態の資産のなかでもとりわけ重要なものであり、社会的世界と社会的文脈に取り入れられたり、経済的機会、価値のある社会的コンタクト、名誉や評判などへと変換されたりする資産である。文化資本を解明するには、それらすべてに注意を向ける必要がある。どのようにして、こうした資本の様々な形態が承認されるようになり、相対的に価値づけられるのかについて、さらなる考察が要求される。『ディスタンクシオン』の議論で強調された主要な点は、階層的序列化の二つの標識、すなわち、正統文化の運用とカント美学の適用だった。文化資本を最も多く持っている人々は両者を示していた。しかしながら、カント美学は、文化消費の様態で社会的な名誉と評判の要請を見つけて伝達するいくつかの志向性のなかの一つにすぎない。
無関心性というカント美学的エートスに通じることで、日々の生活の実践的必要性から距離をとり、「抽象的」文化形態を鑑賞する能力を得られる。このことはブルデューによって、文化資本の構成要素として重要なものとされている。
65-66頁

分析の結果、英国の文化的組織は多様であって一枚岩であるわけではないこと―わかりやすい図式で示すことなどできない―、いくつかの留意が必要であるとはいえ「文化的オムニボア」の傾向もあることなどが示される。また、本来は仮想敵であったゲーリー・ベッカーの人的資本に相当するような「技術資本」、人びとの関係性に役立つような「感情的文化資本」、伝統の存在を前提とする「ナショナルな文化資本」、限定された場所や状況で価値を持つ「下位文化資本」などがあり得るとするのである(471-473頁)。
様々な階級の方を対象としたインタビュー記録の会話を日本語にすることや、そのために英国の文化状況について詳しくなければならないといった困難―たとえば、外国のテレビとか音楽とかの文脈を理解するのは難しそうである―が訳出の際にあったと思われて、こうした文献を日本語で読めるのはありがたいことである。日本であれば、アニメ、ライトノベル、ボカロ、あるいは、(これは訳者のお一人から考えられる例として聞いた)大衆演劇などはどうなるだろうと考えるのも楽しいことである。やはり文化的オムニボアでしょうか。他方、そして、読み進むにつれて以前から悩んでいる問題について、再びもどかしさを感じるようになった。

ここで言うカント美学とは、文化と日常生活の距離を称揚し、そうした距離こそが、文化資本それ自体の中心的で明確な特質だと考える立場である。
146頁

その問題とは大学に対して主張されるいわゆる人文系不要論である。人文系学問の担い手が日常生活からかけ離れていて「役に立たない」からこそ、あるいは、人類の300年後の未来になってようやく「役に立つ」かもしれないからこそ、その学問が重要である主張するとき、その当事者はまったく意図してはいないだろうけれども、それは「スノッブ」であると評価されてしまうかもしれない。本来は冗談で言われることではあるが、私は理工系の研究者から「シェイクスピアなんて講義されても困るんだよね」と実際にいわれたことがある。もちろん、シェイクスピアは人文系の象徴として取り出されたものである。そのときの私が受けた印象は、単にカリキュラムに人文系学問を位置付けるという問題であるというよりは、「じぶん(たち)には理解できないことで、かつ、『役に立たない』ようにみえることであるにもかかわらず、さも理工系に比べて高尚であるかのように振る舞っているので納得できない」という趣旨の表明であった。すなわち、大学をどうするか、カリキュラムをどうするかという議論をするときに、それぞれの学問分野が持っている日常生活との距離を賭け金としたせめぎ合いがあり、「大衆化した大学」において人文系の持つ賭け金のレートが不利になってしまっているように思えるのである。そのときに、なお「無関心の満足」が学問のアイデンティティであるとするならば、どのように問題を打開することができるだろうか。訳書で紹介された書物や絵画といった文化の各分野と同じように、学問分野も位置付けられるのだろう。