会社勤めをしていた頃

(1)
新卒で入社して、4月には早速、翌年実施予定の持株会社化・分社化に向けてのタスクフォースに人事部若手として参加、同時に、給与・社会保険料計算手続きの手伝い、新卒採用の手伝い、前年度人事考課・賞与計算と人事関連管理会計についてはいきなり主担当と慌しく働くことになった。このままの忙しさが続くのかと思いつつ、ゴールデンウィークが到来した。4月29日は休むことができたものの、5月1日からはずっと出社することになった。前年度人事考課・賞与計算と新卒採用で忙しくなるためである。
休日出勤の場合、たいていお昼過ぎに出社して深夜に帰るというスケジュールである。連休中の土日、誰かがテレビをつけた。当時は、戦後何度目かの競馬ブームであり、人事部のみならず同じフロアの総務部、広報部、財務部、経理部にも毎週のように馬券を購入しているファンが多かったからである。私は多少嗜む程度であって、仕事をしながら聞こえてくる競馬中継を何となく気にしていた。
さて、本題に入る前に、人事部、総務部、広報部を束ねる本部の次長について触れておかなければならない。次長はその企業の創業時から働いている、知る人ぞ知る伝説の人物である。創業者の従業員番号が1番、その次長の社員番号は一桁である―なお、その他の一桁番号の方々はとっくに退職していて、その話しは創業時のエピソード紹介で必ず紹介されるので割愛する。銘柄大学の経済学部を出て、その頃はまだガレージ・カンパニーでしかなかった、それはなんと比喩ではなく実際に自動車の車庫で営業を開始した企業に入社してしまうような、風変わりな方であった。大学4年の春先に就職活動をしている私を気に入ってくれたのがこの次長である。面接のときに数年で辞めて大学院に進学したいのだけれどもよいか、学費を貯めるために給料は結構たくさんほしい、志望する管理部門でなければ応募をやめるなどと生意気なことを言う一方、本来であればITの業界や製品に関する知識、企業の管理部門に関する知識を持っていない大学・学部の学生であるはずなのに、なぜかそれを身につけているといったことが評価されたらしい。次長のベンチャー昔語りも面白く、私は某金融機関の内定を蹴ってその企業に就職することになり、就職前も就職後も、1ヶ月に1度は次長とその頃はまだお酒をあまり飲めなかったにもかかわらず「飲み歩いて」いた。深夜3時に創業者の自宅豪邸正面入り口に案内されて行ったこともある。もちろん、行っただけで中には入れてもらえていない。
次長の趣味の一つが競馬であった。出勤時には日経新聞、総合週刊誌、競馬雑誌、競馬新聞のどれかをいつも携えていた。そして、連休中、私が競馬を知っているということが次長に把握されたのである。「おー、ニノミヤ、おまえ競馬やってたのか。早く言ってよー。じゃあ、ちょっと面白いデータあるから、ちょっと来て」、この一言が5月から7月まで、毎日19時以降の仕事の合図であった。次長がエクセルに手入力していた過去20年分の競馬データをアクセスに移して分析するという仕事である。え、これが仕事かって、はい、そのとおり仕事なのである。よくよく考えれば、そもそも冒頭に挙げたニノミヤの仕事は全体の半分であって、残りの半分は次長の秘書みたいなものだった。デスク周りのおかたずけ、社内接待のお相伴、居留守のお手伝い、役員を兼務する企業へのおつかい、政府や総会屋との生臭いあれやこれや、創業者に会いたくないときのメッセンジャーなど、いろいろな雑務(?)をしていた-なお、ご自宅のお掃除だけはさすがに断っていた。直属の元リクのマネージャー、元富士通の部長からは白い目で見られながらも、次長の命令では仕方がないなということで、約3ヶ月間、競馬データの分析に費やすようになるのであった。今から思えば、朝9時出社、退社は早くて夜10時、遅くて明朝6時であってやっぱり多忙は続いていたわけだが、この仕事がなければもっと早く帰れてたんじゃないか!とりわけ明朝帰りは大変で、その数時間後には出社せねばならず、睡眠時間はほとんどないのである(仕方がないので、日中にお手洗いの個室で仮眠を取ることになる)。
なお、競馬データを3ヶ月かけて分析した結果、次長が手計算して立てていた仮説どおりに、ある条件を満たすレースに特定の買い方をしていれば、絶対に投資額のx割は回収できるということがわかった。競馬の控除率は25%なので、まずまずの成績である。しかし、もちろん勝てるわけではない。そう、確実に、絶対に負けるものの、文無しになることはないというだけのことである。結論が出てから次長がいつもそうするように周囲にわざと聞こえるようにして私に言ったのは、「あー、やっぱりこんな買い方で遊んでても面白くねーな、じゃあ、次はパチンコで」であった。
こんな新入社員もいたのである。なお、パチンコについてはまったく知らないのでお断りした。

(2)
その辛い日々が始まったのは、学部を卒業、就職して2年目の夏過ぎの頃だった。
最初に会社は、予定通り就職して1年後には純粋持株会社へ移行して、私を含むほとんどすべての従業員はそれまであった、あるいは、新たに作られた子会社、関連会社へ転籍することになった。私と私の同期の多くは入社前にはその転籍命令についての説明を受けていなかったので、必ずしも前向きにはなれなかったとはいえ、すでに以前のオフィスから移転して10年近くが経過し従業員も大幅に増えたため、住友不動産の地上十数階、地下2階建て一軒貸しビルはもはやあまりにも狭く、そして、社内には淀んだ雰囲気も流れていたので、会社の新しい出発に対して希望を持つこともできたといえる。
私が命じられたのは、グループ企業に対して、そして、近い将来にはそれ以外の企業に対して、総務、人事系のサービスを提供する新設子会社への転籍である。当時、バックオフィス業務をいわゆる「シェアード・サービス」として請け負う企業が出現した時期であって、その時流に乗ってのことであろうか、それまではコスト・センターであった部門をプロフィット・センター化したのである。
さて、私がその転籍前から担っていた複数ある業務の一つが、給与計算系の業務受託のスキーム作りと、その実行である。私は学部生の頃からそうした人事労務についての勉強を独学していて、給与、健康保険、厚生年金、雇用保険労災保険といった各種制度の仕組み、手続きは理解していて、それなりに手計算をすることもできた。ただし、そうした個々の制度についての実務と、それをサービスとして他社に提供することはまったく別の課題であった。具体的に生じた問題は、サービス提供開始数ヶ月後から大幅な違算が生じたことである。
繰り返すようではあるが、個々の制度に関する計算は一般職の先輩方に任されていた。これは当時の同規模以上の企業では同様だと思われるのだけれども、よく知られているように人事部門内の性別役割分業の反映である。それはともかく、私はその計算をまとめたうえでサービスの提供先に伝えて、各種支払いに必要な金額を請求して、着金された金額を従業員の給与口座、国・住民税、健康保険組合、財形貯蓄先の銀行、退職給付のあれこれ…、といった宛て先にそれぞれ送金する仕事を一人で担っていた。
しかし、今となっては当たり前にわかっていることなのだけれども、これはそう簡単なことではない。宛て先によっては、事前の概算払いだったり、複数月まとめての支払いだったり、そもそも複雑で特殊な計算を必要とする項目があったり、そして、もちろん、お得意先からの着金額が誤りだったりすることもある。米国の企業とのやり取りには苦労した。しかし、私も含めて従業員の誰もがそうした事情の全体像を理解できておらず、以前とそれほど変わりなく仕事を進められるだろうと楽観視してしまっていた。そこで生じたのが、違算、しかも、過少請求ではない。過大に請求をしてしまって、理由のわからない現金が口座に振り込まれてしまっているという状態である。
就職2年目の夏から3年目の春過ぎにかけて、この違算の解明という仕事をたった一人で行うことになった。一つ一つ伝票を見て、少しずつ顧客に合計x億円を返金する作業である。しかも、仕事はグループの新卒・中途採用、教育訓練、そして、(1)で書いたような仕事が他にも沢山あったために、この孤独な作業はたいてい他の仕事を終える夕方以降から終電の時刻まで行っていて、あるいは、終電を逃してタクシー帰りである。この企業が激務であることはよく知られていて、深夜にはビルの前にタクシーが待ってくれている。しかし、就職2年目の私にはあまりにも精神的に厳しい仕事であった。食事はまったく喉を通らなくなり、アルコールを睡眠薬代わりに流し込むような毎日が1年近く続いてしまう。学生時代にはほとんどお酒を飲めなかった体質であるにもかかわらずである。体重は63キロから57キロまで落ちてしまって、給料が出るたびに買い揃えていったスーツ、シャツがまったく合わなくなっていく。この仕事を助けてくれるひとは誰もいない。そう、基本的には転職者から構成されている企業であって、先輩後輩関係による助け合いのような雰囲気はまったくないのである。時折専門的なアドバイスをくれるのは、これは先方にとっても迷惑なことであったのだろうが、会計ファームの担当者である。
1年近くかけて違算をほとんど減らすことができ、会計ファームの担当者からも理解を得ることができた。しかし、本件の責任者は私一人ということになってしまって、ますます会社に行くのが嫌になる。私からすれば、確かに第一線にいたのであるからその責任を取って最後まで違算の原因を追究するのは当然であると考えるものの、上司、先輩が本件についてなるべく無関係である装いをし続けたことに落胆してしまった。面倒なことには関わらないというのが、転職者の多い企業での生きる知恵なのだろう。ともあれ、杜撰なスキームであることを見抜けなかった責任は私だけにあっただろうか。
就職の際の心積もりとして、5、6年くらい働いてから大学院へ進学するつもりだった。しかしながら、こんな状況に追い込まれたこと、そして、当時募集を開始したものの人が集まらず苦戦をしていた某大学院社会人クラスに来るよう、学部の恩師から何度となく声を掛けられていたので、時期を早めて会社を辞めることになった。とはいえ、人間万事塞翁が馬、この頃の収入によりその後の生活に余裕ができたこと、さらには、修士を修了してから某企業に採用されることになった理由が、まさしくこの経験を買われてのことであった。こんな経験を一人でした転職者、見たことがないというのである。

(3)
修士2年目の夏、自らの不甲斐なさにようやく気が付いて、会社勤めに戻ることに決めた。秋に仕事探しをしていたところ、とある商社的なところから内定を頂いて、修士修了が確定するより約1ヶ月早い3月1日から再び働き始めることになった。
そこでの仕事の一つは、企業統合の支援であった。当時、「系列」を超えた統合や、同グループ内でも歴史的経緯から複数の別会社になっていたものの統合ということが進められていた。もちろん、その狙いは統合によるメリットを筆頭株主である商社的なところへ還元することにあるのだが、同時に、それは各企業の経営管理者にそれまでに蓄積されたネットワークをさらに活用して経営上の自立を促すことでもあった。
統合のうち、私の担当は人事に関する仕事である。たとえば、具体的には、A社の営業第一課長代理とB社の営業第二課長とでは、A社の総務部係長とB社の労務部主任とでは、A社の大卒新卒5年目28歳とB社の専門学校卒転職者32歳とでは、どちらの方の職責が重いのかを調べて根拠を提示したうえで、統合後における、配属、役職、給与等について提案することである。本来的には、この仕事を得意とするような大手コンサルティング企業に頼むべきである。これはある種の学問に紐付けられて発展した分野であろう。しかし、それには費用と時間があまりにもかかりすぎる。そこで、タイム・チャージの安い私が担うことになる。
仕事はとにかく従業員に対する聞き取り、聞き取り、そして、聞き取りである。月曜日の朝9時に名古屋駅に到着、そのまま駅目の前のxビルに入る。9時半から18時半までお昼休みを挟んで、1人につき45~60分、仕事内容を主に尋ねながら、やりがいや不満についてもお話しを伺う。次の日も同様、朝から夜までxビルに缶詰めである。夜に大阪へ移動して、次の日からさらに2日間、中之島で同じことを繰り返す。夜に東京へ戻って、翌日の金曜日、聞き取りを整理する。関係者の全員―株主、A社経営者、B社経営者、双方の労組、従業員―が納得できる落しどころを探っていく。社労士資格を持つ先輩と一緒に新しい人事、給与体系の構想を考えながらである。
聞き取りの対象者は泣き出してしまうこともあるし、怒りを露わにすることもよくあった。上役がじぶんを理解してくれず不当な扱いを受けている、伝統あるA社がなくなるなんておかしい、「系列」から離れるのは心配である、などと言われるのである。また、当たり前だとは思うけれども自らの仕事内容を「盛る」ように話されることもよくある。さらに、A社、B社の役員会議で報告すると、当方からの提案はともかくも、従業員の不満に関して憮然とした表情で反論されることもあった。それらのときに、私はどういう姿勢をとるべきなのか、後になって私はそれをどのように解釈するべきなのかだろうか。
当時、感じたこうした問いはそのままに残されている。今でもお話しを伺うという仕事をするとき、いつもこの問いを思い出すのだ。