絶望かもしれないけど運動するよ(春の若者論三本勝負最終戦)

春のひとりで若者論を読む企画、第3回(最終回)である。2017年3月に発売されたばかりの新刊を読む。思いつくままに感想を書く。整理された文章ではなく恐縮である。

社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治

社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治

なぜ若者を対象とするのか、その場合の若者とは誰のことなのかについて、第1章の導入部分、第2章の分析の準備部分で紙幅を費やして説明が行われている。そのことじたいが興味深く、単に社会学において学術上の意義があるから当然だという言い方では理解を得られないという、現代の若者を巡る状況が垣間見られるのである。

本研究において若者をどのように定義するかということは、単なるインタビュー対象者の選定にとどまらない、本書の意義を考える上でも重要な作業であろう。
(略)
しかしなお、年齢・世代という変数によって対象者を選定することは、ある特定の集団(本書では「若者」)による集合的な社会運動への参加や、個人的に日常生活を営む上での人的ネットワークなどをみる際に、社会運動サブカルチャーの特質を把握する手がかりになると筆者は考える。若者たちの多くは、学校生活を通じて友達を作るために、同年代・同世代の知人・友人が多くなる。また、実際に同じ教室空間や校区にいなくとも、共通の世代体験や、同じ時期に享受した音楽やファッション、スポーツといった文化によって仲良くなるということもある。このように生活の基盤において共有すると仮定される面が多くあるならば、構造的にも認知的にも、互いの政治的な「こだわり」た「しきたり」を共有しやすい状況にあるだろう。つまり、日常において(社会運動的なものに限らず)サブカルチャーが伝播しやすい構造的な条件がある。本書は、社会運動サブカルチャーを「出来事」と「日常」における、個人的もしくは集合的に行われる世辞的な営みが連関することで共有される、こだわりやしきたり、規範や常識の源泉として捉える。
66-68頁

おそらく筆者はK. マンハイムの「経験の層化」を念頭に置いている。そのうえで、若者を対象にすることの意義を主張している。本書は運動への参加に関心を持つものであるため、そうした社会学の世代論に深く立ち入るわけではない。しかし、同時に、運動に参加する若者による年長世代に対する違和感などについては、長い間研究されてきた世代論として読むのも面白いのかもしれない。年長世代が運動の場に持ち込もうとする奇異な(?)習慣がどのように受けとめられているかについては、ぜひその世代の当事者に本書を読んで頂いて理解を深めてほしい。
私が「よくあることかも」と思って納得したことの一つが、その世代間の認識のずれについてである。

若者たちは場合によって年長者の会合に招聘される側に回ることもある。彼らはカフェやクラブに学者やジャーナリストを招き、専門的な議論を行っていたが、若者たちが体験する限りにおいて、年長者たちの学習会は彼ら自身が主催するものと大きく異なるようだ。
(略)
A12氏(二宮注:年長者の勉強会にスピーカーとして呼ばれた10代)の半生を聞いた聴衆が、彼女の世代なりの体験や、出身地で過ごした記憶、現在の問題意識といったものを聞いて、自分の活動や学習に活かしているかといえば、それも少し異なるようだ。「孫を見る目」「その調子で上手く成長してくれ」といった聴衆の目線は、むしろA10氏の言葉を借りればやや「パターナリスティック」ともいえる、ライフヒストリーの語りをもって「若者」として扱われた彼らは、運動の中で「新しい」担い手として持ち上げられると同時に、無垢であったり、未熟な存在として、時として見下しの視点をもって迎えられることになる。
99-100頁

私の隣接分野である民間教育研究運動の雰囲気を思い出す。自発的に集まった年長者が同じく自発的に参加した若者を批判し始める。本人はまさに「親心」なのかもしれないが、若者からすれば端的に言って「ウザい」。職場でも厭な思いをさせられるのに、なぜ私生活の場でも同じような目に合わなければならないのか。そのうち、若者はその運動を敬遠するようになり、年長者ばかりの運動体になっていく。若者が来ない理由を考えるなどという座談会が行われて、会費を安くしようという案が出される。しかし、当然それはあまりよい解ではないので、ぜひ教育運動の方も本書を読んで頂きたい。
運動の外部に対する訴求方法もまた、若者と年長者とでは異なるようである。

若者たちは、社会運動に参加しづらい理由として、社会運動の「特殊」さ、「へんてこ」な感じ、「異様」さといった言葉を用いる。こうしたイメージは、担い手が年長者中心であることと関連して、若者たちに年長活動家、またどこかで見た/聞いたことのある「古い社会運動」への反発を抱かせる原因となる。そうでない人々もいるものの、多くの若者たちは年長者の用いる「組合の幟」や「『モテたい』ってプラカ」といった、活動の主張とは直接関係ない主張を行うためのアイテムを排除し、つとめて他の運動参加者と「同じ」であり、外からみて「普通」でいられるような空間を作る。
114頁

組織運営も、既存の社会運動組織が徹底し、配慮してきたものとはやや異なる。たとえば会議の運営において、社会運動の理念と大きく異なるようなビジネス書、ファシリテーション本なども参考にすることがあるという
こうした転換は、組織運営に込められた規範も覆してしまう。いわゆる左派やリベラルといった立場にある活動家たちは、平等主義や誰もが水平に参加できる組織運営、多数決によらない、議論によるボトムアップ型の意思決定といった要素を組織運営に込めてきたが、若者たちは必ずしもそうした手続きにこだわらない。
125頁

これらの分析は圧巻で、確かにそうなのだ。関が原の合戦(ほんとうはどうか知らないけど)みたいな幟はない―あったとしても、メディアには写らないような場所での待機。そして、それにも関連してそもそも組織運営の方法が違うのだろう。日本の運動が、特に40年前前後からの諸々の運動体がほんとうに「平等主義」だったどうかは留保が必要であるだろうとはいえ、手続きではなく運動の実質を重視している、そして、それが「普通」の若者に届くように配慮しているというのは、まったくそのとおりである。ただし、同時に、それらのことは運動体の規模に影響されているのではないかという仮説も浮かぶところである。規模が小さいためにその方法が成立するのではないだろうか。たとえば、「ネタ」や「モチーフ」のような符牒に依拠して団体名を決めるというのも、若者固有のことであるのと同時に、小規模だからこそ可能であるようにもみえる。
第4章はタイトルこそ「日常としての社会運動」なのだけれども、実は政治的社会化が課題の中心になっていて、教育学・教育社会学やシティズンシップ論として勉強になった。量的調査で家族や学校による影響を明らかにした研究は複数思いつくものの、お尋ねし難いテーマであるためか質的調査ではあまり見覚えがないためである。

若者たちが政治的に社会化されるきっかけは三つあり、そのきっかけによって関心をもつ主題や周囲との問題共有のあり方が変わってくるため、本章ではその三つのキャリアをカテゴライズした。ひとつは親や学校が比較的平和教育反戦教育、社会運動に対して熱心であるという「箱入り社会派」である。彼らは親や学校から重要とされる政治的課題について考えることを推奨されており、国家や宗教問題といった「大文字の政治」に関心をもつことが多い。それに対して、制服や学校による管理、校則といった周囲の身近な問題から社会に関心をもつものの、そのことを周囲と共有できない「孤独な反逆児」がいる。特に親や学校は政治的なトピックの伝達に熱心でなく、友人も無関心であることが多い。最後に、大学までは無関心であったが、大学での議論や当事者との出会いから政治的な問題に関心をもち始める人々も多くいる。ただ、どの類型にあてはまるにせよ、基本的には「みんなと同じ」「浮かない」ようにしたい、という意識は強くもっていると見受けられる。だからこそ、周囲が運動や政治的な発言に対して積極的であればそれをすることに抵抗がなく、そうでなければ孤独に問題意識を抱えることになる。
207頁

論文ではないので仕方のないことだけれども、現時点から過去を振り返って何かを「きっかけ」だったと言い切ってしまうのは注意したほうがよいかもしれない。あくまでも現時点において当事者がそう思うという認識がわかったのである。このことは読み手が社会学者であれば気にも留めずにそう理解するのだけれども、もしかすると、一般の読者は誤解してしまうかもしれない。自分語りの意味、自己物語論などを想起すると、いつか同じことを尋ねると別の答えが得られるかもしれない。なお、もちろん、紹介される聞き取りデータについては、親や教員との葛藤が丁寧に描かれいて、それほど簡単に影響を受けるわけではない。もし、それほど学校の影響が強いのであれば、二十世紀後半には革命が成功していたはずだという笑い話と同じである。なお、180頁に「高等教育」という言葉が2回出てくるものの、おそらく「高校教育」が正しい。予想・期待される重版の際には、ナカニシヤさん、よろしくです。
もう一つ、教育学・教育社会学として興味深いのは、当事者性に関する指摘である。

本書の分析の結果、若者たちは政治的関心の有無を判断する上で「知識」と「当事者性」を重要視しているようだが、それはなぜだろうか。
(略)
また、当事者性の強調という点では、若者たちが集合行動におけるスピーチや日常のコミュニケーションの中で、自らが政治の当事者であることを主張している点も興味深い。これはシェアハウスや寮でのやりとり、先述した孤独な反逆児たちの身近な問題意識に顕著であるが、日常における家族との戦争にやり取りや「かけがえのない日常」「当たり前の日常」を守りたいというデモでのスピーチなどにも現われている。論理的には「完全に他人の問題だが、関心がある」という動機での社会運動への参加も成立するはずだが、本書で紹介した多くの若者たちは安保問題にせよ、特定秘密保護法案にせよ、「自分にも関連する問題だからこそ関わる」という態度を強く示している。一方で、「非当事者であるが運動に参加する」と主張する人々はほとんどいない。
213頁

この理由についての筆者が提起する仮説は、これもマンハイム同様に明記はされてはいないのだがU.ベックなどの議論を背景としての若者のキャリアに関することがらであるのだが、この説明は私には少し難しかった。SNSで、とりわけ社会運動に対して否定的な若者が「外野がワイワイ言うな」―この場合の外野とは当事者ではないという意味―という表現をすることが気になっていて、どうして「外野」がワイワイ言ったらだめなのか、私はよくわかっていないのである。また、大学生が研究に対して投げかける問いの一つでもある。どうして当事者でもないのに、学者が何かを言えるのか、と。引き続き、私もこうした主張が出される理由を考えてみたい。
ところで、これまで蓄積されてきた若者論との接続を考えてみると、土井隆義による「優しい関係」論がつながるであろうか。土井の言う、他者を傷つけてしまうことをおそれる、他者の気持ちを考えて距離感を保つ、そして、それらは実際のところやや息苦しい、というような心構えである。

たとえば第四章では、卒論や就活を理由に運動を辞め、LINEのグループから抜ける人々と、それに対して深く追求しないメンバーたちの語りを紹介した。この背景には、他人の事情や優先すべきものは、自分にはわからないし、まったく異なる他人に対して「組織」の論理を押し付けるわけにはいかないという「個人化」時代の若者たちの身の施し方があるのではないか。
224頁

最後に、ささいなことだが、先行研究で取り上げられている「政治過程論」について、よくわからなかったので調べてみたい。社会運動論で言及されるそれと、政治学行政学の対象となる、私が一時期勉強していたそれは違うのかもしれない。




社会運動論としては当然だけれども、若者論として、社会運動が「普通」となっている若者論として読まれることを皆さまにお勧めしたい。「絶望の国の幸福な若者たち」で想定されていた若者と比較しつつ。




おまけ:筆者が書いている「マンガを社会学する」、とても面白いのでこちらもぜひ!筆者のことを知ったのはこの企画が先だったかもしれない。細々とマンガ評をしていたので、とても参考になる。みんなもマンガ評をやってみよう。
https://honcierge.jp/articles/manga_sociology