テイストの社会学(春の若者論三本勝負第二戦)

これも同じく講義で学生に読んでもらうために購入、その予習として勉強した。しかし、初学者にとっては難しそうである。ただ、分析篇の本文中に統計の説明が紙幅の許す限りで組み込まれているので、がんばって付き合ってもらえるだろうか。
ともあれ、とても勉強になったのは理論篇である。私はどうしても高等教育、再生産に着目してしまうので『遺産相続者たち』や『国家貴族』の論点に引きずられてしまい、文化研究そのものに疎かったためである。

現在では、英語圏でも状況にそれほど差はなく、サブカルチャー研究、ファンダム研究を目指す若手研究者は、ブルデューの用語系とCSの用語系を容易に交差させながら―「量的」でない理由は明示されないまま―「質的」な調査を試みる。そのときの質的調査では、大きな歴史的蓄積を持つ社会学的フィールドワーク、都市社会学、地域研究の成果はほぼ参照されることはない。「卓越化の理論+フィールドワーク」という組み合わせは、統計的手法や社会学の伝統を、「反社会学」としてのCSを媒介させることによりスルーする論文生産パックとなってしまったといえるだろう。
(略)
分析者が自分自身のサブカルチャー受容において特定の日常的態度を持っており、その態度をほとんど変更することなく、それどころかその態度に理論・概念・用語を与えてくれる道具としてブルデューが選出されている、ということが考えられる。つまり「卓越化/差異化」の枠組みで(自分も含めて)文化を受容すること、文化受容を分析すること、である。記号論的な消費社会論が流行したのは、時代の当事者感覚(階級的刻印を脱色された卓越化ゲーム)と共振していたから、としばしば指摘されるが、それと同じことだ。
48-49頁



かなり厳しい指摘である。確かに、そうした傾向のある論文がいくつか思いつく。それぞれは一見するとおもしろく、学生に対して「卓越化」を例示する際にはうってつけにみえるものもあるのだが、やはり既存の社会学の知識との断絶は問題なのだろう。

こうしたやや挑発的なゴールドソープの議論は、1980年代のイギリス教育改革、サッチャー政権下の公教育投資削減の方向性と対峙していたハルゼーのような教育社会学の議論を承けたものであり、公教育の効果、有意義性を主張する社会学者、教育学者にとって公教育、教育機関の効果を低く見積もる方向性に解釈されかねないブルデューの「非学校的」な文化資本概念規定は、たんに方法論的のみならず、政治的にも警戒すべきものであった。この点、文化資本概念をサブカルチャー分析の「理論」としてわりと無批判に受容したアメリカや日本のCSと、標準的なイギリスの教育社会学者とでは立ち位置が異なっている。
56頁

この点は、私にとってはようやくお馴染みの議論である。日本における教育学と教育社会学との間のあれやこれやに関する問題につながるものでもあり、いやこれ以上はやめておこう。授業で取り上げると、社会学と教育学とでも反応が分かれるところである。