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広尾、麻布十番、六本木、今日はどちらに下りるか

二十一世紀の若者論―あいまいな不安を生きる

二十一世紀の若者論―あいまいな不安を生きる

講義で学生に読んでもらうために購入、その予習として勉強した。しかし、筆者が冒頭で言うように「若者論」論であることから、若者論をかなり読み込んでいないと難しいかもしれない。

最初にお断りしておきたいことがある。本書は『二十一世紀の若者論』を銘打っているが、現在を生きる若者たちそのものを論じた本ではない。往時から比べれば少なくなったのかもしれないが、いまでもアカデミックなものはもとより、ジャーナリスティックなものも加えると、夥しい数の若者についての言説が算出され続けている。本書は若者論ではなく、「若者論」論、もしくは若者についてのメタ社会学を企図したものである。
7頁


第1章新井克弥「宮台真司という現象」では、宮台による若者論の功績と問題点が指摘されている。興味深いのは、1990年代の宮台が大都市圏、高偏差値の若者、とりわけ当初はその中でも男子に軸足を置いていて、そのために幾許かの限界があったのではないか、という指摘である。なるほど確かに、宮台の論考を読んで想像されるのは、「麻布、塾高(二宮注:慶応義塾高等学校)からなる超高偏差値の港区先端文化圏」(30頁)である*1。同時に提起されているマスメディアで活躍する社会学者の意義とは何かという論点はさておき、当時の私には宮台による鮮やかな分析について、実はそれほど違和感がなかったこと思い出した。麻布でも塾高出身ではなく、港区にもほとんど縁がなかったにもかかわらずである*2。そのハイブロウ(?)な文化はいずれ全国に波及するだろう、そのためそれを研究することに意義があるのだと思い込んでいた。しかし、それは私の浅慮にすぎなかっただろう。言及されていた男子校文化は港区、あるいは、東京、首都圏に留まっていたような印象を持っている。現代ではどうなっているのだろうか。そして、もちろん、宮台以降、その限界を乗り越えるような実証的研究が数多く行われていて、だけれども宮台が引用されることは少ないという指摘もとても面白い。宮台システム論を読み直して、それが継承されない理由を考えてみたくなった。


第6章鈴木弘輝「スクールカースト能力主義」では、2010年代に焦点化されるようになった「スクールカースト」について、能力主義批判の観点から捉え直す必要を説明している。筆者は本田由紀のハイパー・メリトクラシー論が学校内外の生徒たちのコミュニケーションをも説明できているとしたうえで、立岩真也に依拠して能力主義が個人の存在、生存を規定している状況を批判的に論じている。そして、スクールカーストもそれと同様に能力主義が原因であるという。私は学校の現場においてはそうした問題意識は極めて重要であるし、筆者が結論として言う「能力を問われることのない場」(144頁)は大切であると認識している。他方で、筆者が学校現場への能力主義の浸透を問題視するというときに、社会の統治の一原理としての能力主義を否定できるかどうか、もう少し知りたいところである。学校が担う役割の一つである選抜を手放すということになるのかどうか。


第9章小谷敏「若者文化の絶望と希望―消費される『若手社会学者』」では、タイトルにはそう書いてはいないものの、第1章に対応して古市憲寿が取り上げられている。「『古市さんの本を読んだら、先生(二宮注:小谷敏のこと)のお名前がたくさん出てきました。先生ってすごい人だったのですね。知りませんでした』私のことを「すごくない」と思っていたこの若い先生が」(187頁)、「この論者(二宮注:同上)のことばは『まだ髪の黒かった頃の小谷敏は』という注釈(?)つきで古市によっても引用されて」(202頁)、大変失礼ながら笑ってしまった(ごめんなさい)。エリートではない若者が古市の主張に対して「ずるい」ということが多いという筆者の経験と平仄を合わせるように、私がかつて在籍した大学や非常勤を担当した大学(たぶん、どちらもエリートのところ)ではそのシニシズムへの共感が強かったことを思い出した。たとえば、右派であれ左派であれデモなんて意味はなく自己満足にすぎないし、身をわきまえて粛々と生きていけばよいという反応が多かったのだ。そして、その次には「どうせ、私たちはゆとり世代だから」という理由が付される。ゆとりがシニシズムを生んだのだとしたら皮肉なことであるのだが、当然そう判断するのは性急であって、むしろそのときの私はそれらが結び付けて語られることじたいに注目するべきであったと思い直すのである。ともあれ、筆者が言うようにほんとうに若手社会学者という「キャラ」が「消費」されているだけにすぎないと思うのだけれども、おそらくはそのことじたいが商売になっているので、当事者としては御の字なのだろう。どこかの領域では「消費」や「生産」という言葉に対する感覚が鈍くなりつつあると指摘できるだろうか。


第9章で書かれている、本全体を通しての結論は以下のとおりである。

文化だけではなくライフコースの面でもこの二〇年間で若者と大人との区分は不明確なものになってしまった。若年非正規勤労者の急増と非婚化晩婚化の進行とによって、就職と結婚によって最終的に果たされてきた若者から大人への移行は、万人に保証されるものではなくなってしまった。九〇年代以降、様々な意味で若者と大人との区別は不明瞭なものとなり、「若者」の固有性が喪失していったことは疑いない。若者を論じようとしても対象となるべく若者の存在が確かなものではないのである。そこから導かれるのは必然的に「若者論の消滅」という結論である。
だがやはり安易な予言は厳に慎むべきであろう。(略)日本の若者が置かれた状況は確かに絶望的なものなのかもしれない。しかし、若者たちは決してあきらめることなく、社会に対して何か新しいものを、大人たちの思いもつかない形で発信し続けていくに違いない。ここに若者文化の希望はある。
203-4頁


高等教育論が引き取るべきことは少なくない。少なくとも「消費」を「生産」であると勘違いさせる仕掛けの多い、この現代の大学において。

*1:塾講・サイバラ・大学祭 - 群馬大学 二宮祐研究室 ←私としては塾高といえばこれ。

*2:私はその後、一時期港区に住んでいたことは公然の秘密である。