黙り込む教授

http://wol.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/122400041/021500020/

この記事で紹介されているKennedy Schoolの授業が、以前私が日本工業大学で担当していた「大学での創造的学び」に似ているという指摘を知人の研究者から頂いた。
以下、記事の引用である。

「さぁ始めよう」
教授は授業の初めにこの一言を発してから、黙ってしまう。
1時間15分の授業は、学生の言うまま、思うがままに進んでいく。
(略)
初回の授業は、今まで受けた授業の中で、最も緊張した空気が流れていた。何も話さない教授を前に、100人の学生たちがどうにか、秩序や形式を保とうと試行錯誤をする1時間15分だった。
教授が「さぁ、始めよう」と言ってから数秒も経たないうちに、不思議と次から次へと学生が話を始めた。なぜ自分が授業を履修したのか話す人、リーダーシップとは何かと説明しようとする人、この授業から何を得たいか話す人…“自己紹介をしよう”と提案する学生が出たと思いきや、何となく話が流れてしまう。
どのような目的や意味を持ちながら、周りの学生は発言をしているのか。秩序を求めている一方で、提案に付いていかないのはなぜなのか。初回の授業では多くの疑問が残った。
(略)
学生に主導権が委ねられた慣れない空間で、一人一人の個人がどう適応して、クラスとして前進できるか。「権威」を持つ人がいない中、リーダーシップとは単なる役職やポジション、あるいは指導者の手腕ではなく、それぞれの人が発揮するものなのだと感じる。
このような気付きや考察を繰り返すことによって、リーダーシップについて学ぶ授業なのだ。あらゆる分野の学生が履修するためにこぞって集まるゆえんが分かったような気がした。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37339
日本語による同様の記事もある。再び、引用しよう。

ハイフェッツ教授は授業初日に教室にやって来て、一通り事務手続きを話した後、黙りこくってしまいます。以降の授業でも、少し話したかと思うと教室脇にある椅子に座ってぼーっとしています。
授業の大半はある意味、授業放棄とも言える状態のため、学生は混乱に陥ります。
「私たちは何を学んでいるんだ」「高い授業料を払ってこれか」「学生の意見なんて聞きたくない。私は教授の話を聞きたいんだ」
(略)
教授はたまに重い口を開いて話し出したりしますが、怒った学生たちは「こんな授業でいいと思っているのか。私たちはこの数週間何も学んでいない。教授のやり方は間違っている!」と教授をも攻撃し始めます。
先生が講義しない授業なんて、いったい何の役に立つのか? と疑問を抱かれると思います。でも、これは多様な意見を持つ人々が集まる、いわゆる現実の世界を教室に再現したものなのです。

この授業の担当者はRonald Heifetz博士である。こちらでシラバスが公開されている。日本でもNHKの白熱教室をみて知った方も多いだろう。
https://www.hks.harvard.edu/about/faculty-staff-directory/ronald-heifetz

授業によく似ていると思われるのが、T-groupやSensitivty Trainingである。そして、なるほど、Heifetzは実は精神科医でもある。こうした方法をよく知っているはずだ。もちろん、それらは過去にとある分野で悪用された経緯によって否定的に捉えられることもある。しかし、大学の安全な教室内で行われれば問題はないだろう。シラバスを読む限り、Heifetzだけではなく複数のTAがついているようである。
「大学での創造的学び」も複数のスタッフが関与することでなるべく混乱が生じないような配慮を行っていた。学生の喜怒哀楽を受けとめるのも仕事の一つである。そして、ちょうど別のところに書いたばかりなのだが、やはりリーダーシップが鍵概念の一つである。私は教室でそれを明示することはあまりなかったのだが、まさに「それぞれの人がリーダーシップを発揮」するようになる。Heifetzとの違いはものつくりを「現実の世界を再現する」〈方法〉として用いるところだが、おそらく目標はかなりの部分で共通しているのである。なお、MBAにおけるケース・メソッドも同じような方法(「現実の世界を再現する」ためのケースであり、まずは院生同士で議論する)、目標を有しているともいえるだろう。

http://sakuranomori.hatenablog.com/entry/20160504/p1

ただ、以前にも書いたように、この授業はすでに開講されていない。とても残念なことである。Heifetzの著作にもあるように、この方法についての学術的背景は当然あるわけだが、その理論そのものを教室で知識として伝達するわけではないので、伝統的な講義形式のみを正統とみなす教職員から理解を得るのが難しいのである。