文系修士課程院生の進路をテーマとして、6月の大学教育学会と9月の教育社会学会で発表を行うべく準備を進めている。ところで、院生の「能力獲得」については2つの異なる意見があるようで困惑している。
一つは次のような意見である。


http://d.hatena.ne.jp/naokimed/20091021/1256073568

大学院で研究を行う上で最低限必要な能力というものがあるはずですが、それとは社会科学の場合であれば表題に挙げた3つかなと思います。これらの3つはいずれも、20代前半くらいまでに身に付けないとその後はなかなか身に付きません。身に付けようと努力したけれど身に付かなかった人は、少なくとも研究者への道はあきらめるしかありません。
(上記ブログより)

私がかつてそうであったリカレント院生(?)ではダメだということになる。これを証明する根拠があるのかどうかはわからないのだけれども、また、自分の人生以外はどうしても否定したいという誤りゆえのことなのかわからないのだけれども、皆さんは同意なさるのだろうか。私じしんがその証拠事例だというご指摘はどうかご容赦を(笑。
そして、もう一つは次のような主張である。


https://twitter.com/eliassien/status/729102946617556992
https://twitter.com/eliassien/status/729105487740833793



努力の「見返り」は必ずしも約束されるわけではないという点は共通する一方、学ぶことで成長する時期は人によって違うのだという点で異なっている。
私の狭い経験の範囲内、バイアスのかかった認識では、前者に沿わない事例を複数知っている。特に私の分野ではリカレント院生(?)を経て研究者となった事例は少なくない。大学職員から院を経て博士号を取得するとか、民間から院を経て高名な研究者になるとか、よく聞く話しなのである。ここではお一人お一人の名前を挙げることはしないけれども、同業者の皆さまは複数の方のことを思い出せるであろう。この理由は当該分野が「社会科学」ではないからなのか(え、そうなのか)、あまりにも特殊なのだからなのか。
職業研究者になるかどうかはともかく、大抵は大学院で苦労するし、しかし、その程度は人により異なるのだけれども少なくとも成長しないわけではないというような印象を持っている。また、そもそも、成長の程度はその努力の程度だけではなく様々な環境にも大きく影響される。たとえば、アルバイト、家族の介護や看護などに時間を取られてしまう院生、学部生や中高生の頃に研究に関連することがらにあまり触れる機会がなかった院生、そして、数年前の高等教育学会で発表したことで言えば院が小規模だったり地方にあったりしてピア・グループに所属できない院生は大変だろう。それぞれの主張をなさったお二人に対して、これまでに各所で提起されてきたメリトクラシーの論点をふまえつつその妥当性をあらためてお尋ねしてみたい*1
ともあれ、このテーマはあまりにも根拠がなさすぎて、このエントリにしてもほぼ経験談しか語っていない。2回の学会ではこれらに焦点を絞った発表になるわけではないものの、少しだけ関連するので考察を深めておきたい。

*1:二宮科研の皆さま、さらにこれに関連して。アカデミズムにおけるメリトクラシーも隠れたテーマですね、はい。