http://ihuru09.jp/archives/373
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/15K13195.ja.html


先日、公開研究会「レポート課題において何を問うべきか?―オリジナリティが求められる論題とその評価」に参加してきた。(とても勉強になったことは当然で)以下は私が考えなければならない論点である。
私が以前から納得できていない、ルーブリックを作成して評価しようとする際の、それぞれの観点別の点数を合計してしまうことの意味について、なお理解を深めることに至らなかった(あくまでも私の理解不足であって、皆さまに問題があるわけではない)。たとえば、レポートの形式、内容、表現のそれぞれに段階別到達度を明示する文章をあらかじめ用意するのだとして、その各到達度に40%、30%、30%のウェイトをかけて合計点を算出することに、どのような教育的意味があるのだろうか。以前にもこのブログで同種のことを書いたはずだが、仮に人の体格を「評価」しなければならないというときに、身長、体重、血圧、視力を合計するだろうか。もともと、集約するのがおかしいという問題意識があったからこそわざわざ手間をかけて観点別の評価基準を設けたはずである。換言すれば、技術的合理性を追求しなければならない最終的な成績評価に対して、形成的評価のために使用していたルーブリックを機械的にあてはめてしまっているという問題が残されていると指摘できるだろう。
この点はGPAの問題にも関連している。単純に、レポート60%(その内訳は、形式24%、内容18%、表現18%)、試験40%の割合をそのまま点数とみなして成績評価をすることにしよう。合計100点満点のその点数は、おそらく、A〜Eまでの4段階の「標語」に換算されて、さらにそれぞれ、4.0、3.0、2.0、1.0、0.0の数値が割り振られる。そのうえ、全履修科目の数値の平均点が計算されてGPAとなる。当初存在した、その学生の観点別の到達度に関する細かい情報は失われてしまう。選抜に何らかの数値を使うことになるであろう大学院、企業等、奨学金団体はGPAを信頼に足るデータであるとみなすかもしれないが、その内容を精査することはできない。レポートの内容18点と内容5点の学生の差はみえない、同一の学生が形式0点であったのに対して内容18点であった場合のその差の意味を考えることはできない、レポートの達成度が高い学生と試験の達成度が高い学生の差の意味もわかならい。一般には瑣末なことがらにしかみえないかもしれない。決定的に重要なのはGPAであってそんなに細かい差に捉われるのはおかしい、と。同時に大学入試難易度を示すことにされている偏差値の細かい差には捉われるのにね…。しかし、教育学の問題としては等閑視できないはずである。これもまた形成的評価と総括的評価の接続についての検討を怠ったことによる問題である。
もう1点、興味を持ったのはレポートの目的についてである。公開研究会の後半約2時間を用いて行われた「論題類型化ワークショップ」において、学生の関心を深めることがレポートの目的であるという意見が複数提起された。私の印象でしかないものの、特に職業的レリバンスの強い分野にそうした意見があるようだった。もちろん、レポートの目的は類型化可能ではあるものの多様であるはずだし、あってもよいだろう。ただ、私としては学生の興味、関心、態度が最終的な成績評価に反映されるのはあまり納得できていない。興味、関心、態度はそれを有している「ふり」をすることができるし、そうした成績評価の運用は教員に好かれたりゴマをすったりしておけば良い評価を得られるという誤解を招くことさえある。そもそもルーブリックを作成するのも困難だろう。それでもあえて行おうとすれば、少なくとも複数の評価者を用意しなければならないだろうけれども(フィギュアスケートのような競技の採点のように)、それはどれほど実現可能なのだろうか。
このテーマ、引き続き勉強したい。なお、別の場所で悩みを吐露していた大学における「真正の学習」とは結局何なのだという問題と、サービスラーニングが引き起こす問題については後日に。たぶん。