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NITの「大学での創造的学び」「文章能力トレーニングの基礎/応用」では、学部1年生が〈主体的〉に大学での授業を受けられるようになることのみならず、長い人生でも同じように自らの意志や判断に基づいて行動できるようになることを遠大な目的としている。しかし、〈主体性〉を授業で身につけるというのは、もちろん矛盾でしかない。教員が学習者に対して何らかの目的に即して知識や技能を伝達することが授業であるという信念が強いほど、そもそも目的に〈主体性〉が据えられてしまうと混乱が深まる。教員に指示されたことを唯々諾々とこなすのは〈主体性〉ではない。たとえば、これを覚えなさい、この計算をしなさい、これができるようになりなさいという案内に従っているだけでは〈主体性〉とは程遠い(ただし、それらの伝統的な知識伝達型授業が不要というわけではなく、〈主体性〉を目的とする授業のどちらもが車輪のように必要である)。
そこで、たとえば本年春学期の「大学での創造的学び」(各教室130〜250人程度)では、前年度に引き続き以下のような取組みを行った。毎回の授業では、最初数分間の導入(授業数回目以降は省略)、20分程度のA4の「紙」へのリプライ、60分程度のグループで実施するアクティビティ、残り時間で「紙」への報告執筆である。アクティビティの内容について、最初の頃は私が案を複数提起するものの、授業数回目以降は学生が案を提起する。授業の様子はさしずめ学生総会、集会である。アクティビティに必要な材料や工具なども、次第に学生が用意するようになる。アクティビティは新聞紙タワーなど、図案作成、制作・実験、検証という理系的なプロセスに近いものを推奨するが、必ずしもそうではないものが選ばれることもある。「紙」は毎回学生がノートに書いたことを再構成して執筆するものであり、教員がフィードバックをして翌週移行に返却する。学生はさらにそのフィードバックに対してリプライを行う。
ほんの一部の学生が戸惑うのは、たとえば次のことがらである。


・教員が大きな教室であってもマイクを使わない
・教員が板書をしない
・教員がプリントを配布しない
・教員が指示をほとんど行わない
・連絡事項は学内の掲示板を見て各自で確認するように言われる
・教員が学生の中に紛れこんで何かの作業をしている
・しかし、教員はアクティビティの最中に何かを言い出す
・さらに、教員が学生のノートを確認することもある
・「紙」へのフィードバックに明示的な指示は多くない
・教員に質問をしても思い通りの回答を得られない


これらには、それぞれ教育的な意図が込められているのだけれども、それに気付く学生とそうではない学生がいる。学生の中に紛れてしまう私が授業中にしていることは、〈主体性〉の涵養の邪魔することのないよう注意深く授業を観察し必要に応じて示唆すること、授業記録を執筆すること、「紙」へのフィードバックなどである。
実は私の重要な仕事の多くは授業時間以外に行われている。この授業では、学生にとって「わからない」ことが大量に生じる。授業中に私とは異なる役割を果たす、つまり、学生からの質問を受け付ける授業補助者を複数配置するものの、それだけでは不十分である。授業時間以外にアドバイスを行ったり、補習を実施したりする。特に春学期には、学部1年生の新しい環境に対する漠然とした不安が、経験したことのないこの授業への不快感となって集中的に表出することが少なくない。たとえば、前述の戸惑いそれぞれに対して次のような主張が行われる。


・声が聞こえない
・何をノートに書いてよいのかわからない
・プリントをもらえない
・教員が何もしてくれない
・学内の掲示板を見てなんて言われていないし、そもそも授業中に連絡するべきだ
・教員がサボっている
・教員がアクティビティの邪魔をする
・ノートではなくルーズリーフでいいはずだ
・「紙」へのフィードバックの意味がわからない
・教員が意地悪をして回答してくれない


これらの主張の総数は必ずしも多いわけではない。当然のことながら私は教室後方まで声が届く声量で話しをするし(喘息持ちの私はその後数時間声が出なくなる)、実際にはノートに書くことなどの授業中にするべきことは明示的に伝えている。大抵の場合、学生どうしの横の繋がり、とりわけSNSの活用、私に対する文句の表出(?)で解消されている。なお、質問への回答の件については、その都度「意味のある質問スキル」が向上するような練習を行っている。それが実践的に身につく好機なのだ。
ただ、一部にある不快感の解消は〈主体性〉の涵養という授業の目的を取りやめない限り容易ではない。新しい環境に対する不安があるうえに、高校までの教員―学習者間の関係性に存在する前提がなかったり、それまでは成功していたのかもしれない「対教員戦略」が有効ではなかったりするからである。たとえば、「承認欲求」が満たされることはあまりなく、教員に好かれることで良い評価が得られるということもない。教員が学習者の思いを汲み取って何らかの回答を行うということも〈主体性〉の涵養という点で避けられるべきことになってしまう。
さて、来年度以降はどうすればよいだろうか。本年度を踏襲するか、または、他大学のように、私の前(々)任校の例のように、少人数クラスの丁寧授業(図書館の使い方、ノートの取り方、メールや手紙の書き方、レポートの書き方、ストレスマネジメント、職業人講話、カルト・ネットワークビジネス対策など)にするか。〈主体性〉を重視するか、高校までと同じような文脈に依存した関係性に基づく受動性を重視するか。ご提案があれば伺いたい。マイクを使うべき?

関係者の方には、授業のご見学が可能かもしれません。関心があればご一報ください。大学、学部学科、カリキュラム単位の外部質保証ではなく、授業単位のそれが可能にならないかと妄想(?)を深めています。