http://d.hatena.ne.jp/morinaoto/20150728/
日本教社会学会第67回大会課題研究1「戦後の教育政治を問い直す」(2015年9月10日)についての短いメモである。本課題研究はまず3人の登壇者がそれぞれに報告を行った後、2人のコメンテーターからの質疑に応答するという方法がとられた。


第1報告(村上)
内容:教育政策に関する政治と権力についてのアプローチ
主たる時期:戦後直後〜2000年代
第2報告(仁平)
内容:「福祉国家」に関する教育学と教育社会学と視覚の相違
主たる時期:戦後直後〜1970年代
第3報告(松田)
対象:教育研究運動の言説
主たる時期:1960年代〜1980年代


それぞれの報告の見取り図を描くため(乱暴だが)2象限図式を考えてみる。事実開明的か規範的かそのねらいを縦軸に、使われる語彙が狭義の教育学か広義の教育学かを横軸としてみる。すると、少なくとも私にとっては、第1報告は事実開明的×広義の教育学、第2報告は事実開明的〜規範的の往復×広義の教育学、第3報告は規範的×狭義の教育学に位置するようにみえる。
2人のコメンテーターのうち1人からはかつての「教育科学論争」をどう捉えるかという問いが発せられた。私には立場性を明確に告白せよという「踏み絵」のように感じられる厭な質問であったが(これまで何度も尋ねられてきたよ(にっこり))、報告者3人の回答は次にみる問いとも関連するものであって、それゆえにその回答が重要であるように思えた。その問いとはすなわち、もう1人のコメンテーターから発せられた「教育政治を問うための道具立てをどうするのか」というものである。これは、フロアからの質疑として私がコメントペーパーに記した「どこから語彙を調達するのか、つまり、いまさら教育政治を対象にすることの意義は何か」という問いと同様のものである。
この問いと回答のセットは先の2象限図式に戻ってみれば横軸に相当する。私としては、今回の課題研究のねらいからすれば、これまでの狭義の教育学の語彙だけでは不十分であるように感じられた。もちろん、3人の報告者ともに(第1報告でさえも)政治を大文字のそれに限定せず、かなり広い概念として捉えている。しかし/だからこそ、狭義のそれではどうしても物足りなさを覚えてしまうのである。
(ここから飛躍、というか、第1報告に焦点化「統治するのは誰か」)
たとえば、私の研究関心からすると国立大学の文系問題が話題として挙げられよう。これはもはや政府対大学という枠組みで捉えることはできない。たとえて言えば、アリソンの対外政策研究と同じである。一見すると、大学からすれば対外的なことがらであるのだけれども、実はその「政治」は大学内の意思決定にも左右されているかもしれない。