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高等教育学会の部会で勉強して、気になったことを1つだけ記しておく。




「近年、教員養成を行う私立大学が増えている。しかし、そうした新設大学、学部の入学偏差値は低い。学生の質は以前と比べて悪くなっている。大学の授業は教員採用試験に合格することだけを目的としたものになっている。とりわけ、研究者ではなく実務家教員の授業にその傾向が強く、試験合格のためにテクニック、ハウツーばかりを教えている。教員として長年働くために必要な知識、技術が伝えられていない。もちろん、そこには教育科学の研究の裏づけはまったくない。当然、採用された新任教員の質もかなり悪い。学校の将来がおそろしい。問題の解決のために、私立大学の教員養成系の教育内容・方法、私立大学出身教員の質に関する調査を経年的に行うべきである。数年後に始まる教員需要の急激な減少に伴って、私立大学の教員養成系は方針の転換を迫られることになるけれども。

(略)

私たち学者の仕事は、するべきことの主張ではない。Sollen ではない。エビデンスを集めて現実を解明することである。Sein が対象なのだ」





少なくともこの件に関しては、現実の解明が仕事であるといいながら、するべきことの主張が背景にあることは自明であろう。この主張に沿うようにエビデンスを集めることは可能であろうし、そもそも仮説設計の段階でその主張から離れることはできない。あるいは、控えめに言ったとしても、解明された現実はするべきことの主張であると他者によって理解されるだろう。学問の目的を平易に語ってしまうと、すぐにこうしたアポリアに行き当たってしまう。
また、この主張が学校教員の専門性は大学教育だけで完結するかのような前提を持っていることも問題である。学校教員は日々の仕事を通じて、同僚等との勉強を通じて長い職業人生を通して専門性を高めていることは、これまでよく研究されてきたことである。エビデンスも存在する。いや、専門職とは本来そうしたものである。しかし、仮に何かの調査を行うのだとして、学校教員の専門性を疑うという仮設を持つ調査の実施じたいが結果として学校教員からまさしく専門性を剥奪することになるような印象を持ったのである。
複数の専門職にみられる「脱専門職化」のプロジェクト―「あんな仕事は誰にだってできる」「能力がないのにもかかわらず身分不相応な特権を維持している」などという主張を通じて専門職をそうではない地位に貶めていく―を、今回の部会で垣間見てしまったのかもしれない。
なお、第一に、卑近な経験談や極端な事件を引き合いにして教員の専門性を否定するコメントは不要である。会社員や一般公務員に比べてそうした事例を見かける機会が相対的に多いのは、教員が専門職として扱われてきたこと、同時に、「脱専門職化」のプロジェクトが進められていることを理由としてメディアに取り上げられるからだ。学校教員の専門性把握の困難の一つはその人数の多さに由来している。第二に、入試偏差値を職業能力の程度の有無を判断するために用いるコメントも不要である。学問的な枠組みを使わなくても、その曖昧さについて認識を共有することは容易だろう。