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文脈を異にするツイートなのかもしれないけれども、せっかくの機会なので一つの言葉だけに反応してみる。



思考を重視する授業、チーム・ティーチングを行う授業、アクティブ・ラーニングの授業、すなわち、伝統的な座学形式の知識伝達を行うわけではない授業において、学生が「理不尽」だといって不快感を表すことがある。これは学生本人がそう思っていた言葉なのか、友だちや他の教職員から教えられて使い始める言葉なのか、どちらなのかはわからない。いずれにせよ、この言葉によって何らかの違和感を伝えようとするのである。
3点ほど、思いつきながらこの違和感について分類してみたい。第1に、「理不尽」の水準が教員と学生とで異なることについてである。もちろん、権力があってこそ成立する教育機関における〈教育〉という独特のコミュニケーションの性格をふまえたうえで、なお教員からすれば「理不尽」とは言えないような状況が違和感の対象になっていることがある。例としては、「テストやレポートの点数が足りずに不合格になった、これは理不尽だ」というものである。到達の水準に関して「理不尽」だという。いわば、タテの「理不尽」である。次にみる学習観の転換に関することでもあるのだけれども、この「理不尽」は対応しやすい。学生がこのことを修学上の課題であるとしてカウンセラーに相談しても、「評価権の乱用」だとしてお客様であるかのような態度で教務課にクレイムを申し立てたとしても、返答は「今度は勉強しよう」である。なお、参考文献を2本以上探して読んだうえで自分で設定した問いについて考察せよといった課題は、大学によっては学生のみならず教員、職員からも「理不尽」だと非難されるだろう。教員が参考文献を提供しない、教員が問いを出さない、自分で考察するなんあまりに「理不尽」だ、と。どのように説明をしたとしてもトラブルになるだろう。これもタテの「理不尽」である。
第2に、学習観の違いに起因する「理不尽」である。先日のエントリに書いたように、特に初年次学生はある種の学習の構えに捉われていることがある。この構えが維持されている場合、冒頭の授業は極めて「理不尽」に見えてしまう。「(高い授業料を払っているにもかかわらず)知識を教えてくれないなんて、複数の教員が教室にいて、しかも教員の発言が統一されていないなんて、学生がアクティブに動くばかりなんて、これは理不尽だ」ということになる。学習の方向性が異なる、いわば、ヨコの「理不尽」である。大学では自ら何事かを獲得するべきであること、他者の主張は学問的なものであれ将来の職場におけるものであれ揃っていないことが当然であって自らそれぞれを吟味するべきであること、どんなことからでも学ぶことはできるしそうするべきであること、特に初年次教育ではこれらの学習観の転換が必要になる。ただし、言うまでもないことだけれども、すべての授業がこうでなければならないわけではない。私だって高等教育論や教育社会学の授業であれば知識伝達を重視する。いずれにせよ、このヨコの「理不尽」の主張への対応は難しい。学内各所において大学教育の現代的課題に関する理解を必要とする。
第3に、言葉の持つ意味を学生、教育、職員とで共有できないことについてである。たとえば、私が「理不尽」という言葉を使うのは労働法を守らないブラック企業(やブラック大学…)、相互に矛盾する辻褄の合わない高等教育政策についてである。しかし、学生はまったく違う意味をこの言葉に込めていることがある。私からすれば「不愉快」や「不満」が適切な言葉であるようにもみえることがある。とりわけ、書き言葉と話し言葉の違いに苦労するような学生が多い大学では、このような言葉の捉え方の違いによるコミュニケーションのズレはよくあることだ。このことをナナメの「理不尽」と格好良く言ってみたいけれども、さすがにそれは牽強付会なのでやめておこう。
「理不尽」といっても複数の捉え方があるのだろう。私は明日もまたタテ、ヨコ、ナナメ(?)のそれと格闘することになるだろう。とはいえ、私は決して「理不尽」だとは捉えていない。教育の目標と評価の観点は伝統的なそれであって理にかなったものである。



追記1 ある種の学習の構えに捉われているのは現代の初年次学生だけではない。数年前、公開講座を担当した際、現代の大学教育を体験することをねらいとしてアクティブ・ラーニングを実施してみた。授業後、特にご高齢の方からこんなものは大学の授業ではないと批判を頂いた。難解な概念をしかめ面で唸りながら聞き続けて、わかった気になることこそが大学の授業だったのかもしれない。たとえば、新制度論やシステム論で大学政策や大学「問題」を滔々と語れば納得なさったのだろうか。

追記2 大学の「理」、職人の世界の「理」、これらをつなぐ将来のエンジニアにとっての「理」をどのように結びつければよいだろうか。教育社会学は何かを提起できるのだろうか。

追記3 夏至の夕暮れ、蚊に刺されながらこのエントリの下書きを書いていたところ、教育社会学の先生(いや、先輩)にお会いした。突然のことだったので、しどろもどろのご挨拶になってしまった。ごめんなさい。