いつの間にか身につけた相互に矛盾することもある思い込みらしきことを挙げてみる(順不同)。大学にはこれらを何か別のものへ、やや古い流行り言葉で言えば「転換」させる仕事があるようだ。いわゆる高大接続の論点である。

  • 重要なことはすべて板書される。だから、学習とは板書を一字一句ノートに書き写すこと、カメラ付きケータイで撮影することである。一方、口頭で説明されることは重要ではないからノートには書き留めない。撮影できないし。
  • 重要なことは配布されるプリントにすべて書いてある。だから、学習とはプリントを集めて読んだり、プリントの空欄に適切な言葉を埋めたりすることである。一方、教科書を読むのは「無駄」な行為、「コスパ」の悪い行為である。まして、関連文献を探して読むなど「スマート」ではない。
  • 配布されるプリントこそが重要なのだから、ノートを買う、ノートを取る、ノートを読み直す必要はない。ルーズリーフのメモで十分だ。
  • ひとりひとりが分かるまで、丁寧に何度でも何度でも繰り返し説明をするのが「教師」「教諭」(教員ではないよ)の仕事だ。授業で聞き漏らしたことがあった場合、何度でも説明を求めることができるし、それこそが学習の重要な構えである。
  • 質問とはわからないことならなんでも「教師」「教諭」に尋ねることである。それこそが学習の重要な構えである。
  • (学問分野の性格にも依るものの)授業で伝えられた唯一正しい解答を暗記することが学習である。したがって、唯一正しい解答が提示されるべきである。他方、思考の過程に気を配るのは「無駄」な行為、「コスパ」の悪い行為である。
  • 教員はマイクを使うのだから、教室の最後尾にいても何ら問題はない。質問は教員が最後尾に回ってきたときにしよう。教員がやって来るまで待っていよう。
  • 学習とは暗い教室の中でプレゼンテーションソフトウェアで作成されたスライドを見続けることである。
  • 与えられた課題を行うことが学習である。もちろん、与えられないことを学習する必要はないし、そもそも与えられないのだから何をすればいいのかわからないのが当然だ。
  • 間違いの指摘は心を傷つけられることである。したがって、その指摘には細心の注意が払われていなければならない。
  • 自らの学習観に合わないことは「無駄」で「コスパ」が悪いのだから絶対にしない。それを強いられるのは意地悪な思いがあるからに違いない。
  • 授業はシラバスどおりに進んでいなければならない。シラバスは契約である。
  • 頑張ったことが高く評価されるべきだ。たとえ到達度が低くても、精一杯努力したことは讃えられなければならないのだ。なお、授業に出席することも頑張りである。
  • 教員から気に入られることが高い評価を得るコツである。他方、教員から嫌われれば「詰んだ」ことになる。好き嫌いが大事なのだ。
  • 「やる気スイッチ」を探して'ポチッとな'と押すことや、積極的にさせることは教員の仕事である。なぜなら、学習にはやる気や積極性が必須だからだ。
  • 試験には授業で扱った問題がそのまま出題される。それ以外の問題が出題されるなんておかしい。暗記していないのだから。
  • とにかくやり過ごせば進級できる。学習とは何をせずともじっと我慢することである。
  • 学習とは知識や技術そのものを身につけることではなく、それらに関心を持つフリをすること、それらを身につける意欲があるフリをすること、それらに敬意を払う態度を見せることである。関心、意欲、態度こそが重要なのだ。
  • 学習とは感想文を書くことで、ある一つのまとまりを終了することである。考察する必要はない。「よかった」「おもしろかった」「はじめて興味を持つことができた」「大切さをあらためて実感した」「明日から頑張りたい」「今後心掛けたい」などの感想文を仕上げればよい。
  • 学習は一人一人で行うものだ。集団で行うなんて、わけがわからない。
  • 学習とは印刷された文章で示された問題を筆記用具を使ってルーズリーフに解くことである。口頭で示された問題、自ら探し出した問題を、口頭で、身体を用いて解決することは学習ではない。



他にはどのようなものがあるだろう*1。「やる気」なくても、消極的にでも学習できればいいよね。

*1:最近、機能主義的にしか思考が働かない。困った。