学校の戦後史 (岩波新書)

学校の戦後史 (岩波新書)

これだけ丁寧、簡潔に、また、規範的にではなく戦後学校史をまとめた新書は類書がないはずである。エントリの冒頭からないものねだりをすれば、序章に書かれた次の問題意識をより強く打ち出してもよかったのではないだろうか。

近代学校のもっとも基本的な性格は、「教える」という文化伝達を軸にして、生活の場から距離をとって構成された特別の時空間に、対象となるすべての子どもを一定の期間収容するところにある。近代以前は、共同体社会(ムラ)の統治や職業技能の伝承など、新しい世代が先行の文化を「学ぶ」ことで結果として人づくりが行われていた。実際には、ムラを生きることがそのまま人づくりにつながっており、圧倒的に長い期間はこのようなムラの人びとのなかに埋め込まれた人づくりが行われていた。これに対して学校は、「教える」という強い意図性に貫かれた特別の場での人づくりであった。
3頁

本書では、学校から「社会への入口」(学校の出口)の部分に着目する。先述したように、学校とは、次世代の養成を特別な時空間で行う場であり、子どもを一度生活から切り離し、また社会に返すという営みを前提とする。学校導入期には、なによりも「人びとをいかに学校に来させるか」が学校の存続にかかわる課題だったが、こんにちのように学校に通うことが普通になったあとは、いずれかの段階の学校を卒業した時点で、「どのように社会に返す(送り出す)か」が課題となる。
6-7頁

当然のことながら近代学校が単純な歴史的直線のもとに発展してきたというわけではなく、地域の産業の状況と絡まりながら、さらに、(このことは紙幅の都合からか明示的には言及されていないが)「近代家族」の成立の過程と絡まりながら、行きつ戻りつ形作られた経緯が描写されている。学校に子どもを囲うことによって、それらとの間に必然的に生じる矛盾にもう少し焦点を絞るという書き方も可能であっただろう。
さて、突飛なことがらを言ってみる。70年前後の「民主主義の訓練」と00年代の「『知識基盤社会』に必要な新しい能力」の一部の類似についてである。全国生活指導研究協議会(全生研)の特設道徳批判をふまえた集団づくりの実践(122-123頁)は、字面どおりに捉えるとDeSeCoのキーコンピテンシー(144頁)の涵養に近いように見える。民主的であること、グループで課題に対応すること(前者では「班」、後者では「チーム」というそれぞれに独特な言葉ではあるものの)、平等であることやさまざまな権利を尊重することといった点が共通している。もしかすると、キーコンピテンシーの獲得のためには全生研の膨大な研究蓄積を読み直すべきなのではないかとも思量するのである*1。この粗雑な思いつきが否定されるならば、両者の違いはどこにあるということになるだろうか。
そして、些細なことを一つだけ指摘する。70年代半ばに大学進学率が抑制された理由の背景として、高卒労働力を確保したい産業界からの要求を挙げている(12頁)。私の修士論文(財界誌を研究対象とする)では明確に否定することができなかったのだが、確かにそうした要求は存在したものの、石油危機が生じたのが73年秋から冬、その影響を受けて労働力需要は冷え込むこと、それ以前から開催されていた高等教育懇談会では大学進学率をさらに上げていくことが確認されていて、石油危機後に抑制の方針に転換したこと、これらの「間接証拠」によって産業界要求説はやや厳しいはずなのである。いずれ再挑戦したいテーマである。

*1:全生研はFacebookをやっているようである。テクノロジーと(それに慎重な?)学校文化との関係として興味深い。