ノンエリートのためのキャリア教育論

ノンエリートのためのキャリア教育論

岐阜大学の児島功和先生から、居神浩編著『ノンエリートのためのキャリア教育論―適応と抵抗そして承認と参加』(法律文化社)を謹呈頂きました。ありがとうございます。


児美川孝一郎が問題視する「俗流キャリア教育」について、編著者の居神浩は次のような見解を示している。

ここで俗流キャリア教育とは、私なりの理解では、「アンダークラスへの転落の恐れがある若者に、彼らの意思の涵養と能力の向上を促すことによって、新中間階級(あるいは企業社会の正統な一員)への道を(実現できなくても)展望させる教育」である。ただし、これにすっかり染まってしまうのではなく、むしろこれを徹底的に換骨奪胎することが本意である。


序章 居神浩「ノンエリート大学生のキャリア教育の課題―「適応」と「抵抗」、5頁

ここで重要なことは括弧に入れられた部分である。「企業社会」とは一般的な言葉ではなく、かつて政治学者の渡辺治らが提起した概念のことであるようにみえる。「企業社会」には20世紀後半の個別企業における様々な独特の慣行を指す〈狭義〉のものと、その秩序が日本社会全体を巻き込む〈広義〉のものの両者があるわけだが、この文脈ではどちらにも読むことが可能である。たとえば、「俗流キャリア教育」は〈狭義〉の「企業社会」における福利厚生―これは別の国では福祉として政府が担っているもの―が実現していた大企業に就職することが不可能であってもそれを展望させる教育であるのと同時に、〈広義〉の「企業社会」以外の異なる世界のあり方の探求を妨げる教育でもあるといえるだろう。
そのうえで、居神は「適応」と「抵抗」の両者が必要であるという。「適応」はまっとうな企業に雇用されるための構えを身に付けることであり、「抵抗」はまっとうでないことがらに対するクレイムを申し立てるような力を備えるといった意味のようである。「俗流キャリア教育」が「適応」に関して有益な効果をもたらさないこと、さらに、「抵抗」を限りなく等閑視することに対して、それらに関する代替案の模索が続けられていることは周知のとおりである。
さて、「抵抗」については多くのことがらが提起されているので、本エントリではあえて「適応」に着目してみたい。「適応」と「抵抗」をセットにして語っているものをよく見かけるのだけれども、私はそれにやや落ち着かなさを感じるのである。というのも「抵抗」は仲間の存在や他者との関わりが強調され、それは確かに重要である一方で、「適応」について同じことが主張される機会はあまりない。この問題は「適応」が心理学由来の概念であることによるものかもしれない。
『就業力と大学改革』(64-70頁)は*1、アダプタビリティ(適応・適応性)は心理学の中でも欲求や動機付けの分野で研究されることが多く、「場や環境を認知して、その要請を感じとる」「要請に応えることで予測される結果に対する報酬・期待を感じる」「期待される結果に向けて意図して行動を起こす、あるいは自分を変容させる」プロセスがあるとして、大学生にはそのために「協働・協調的作業」「さまざまな活動」「何事もやってみる」「柔軟性、許容性」をさせる/身に付けさせる/習熟させることが必要であるという*2。アダプタビリティのプロセス概念、そこから導き出される大学教育への示唆、その両者ともに個人(の変容)に焦点を絞っている。「抵抗」で主張される仲間意識、ハマータウン的な言葉を使えば「やつらに対するおれたち」という視点を見出すことはできない。「適応」も「抵抗」と同じように必要に応じて集団の力に依拠することは難しいのだろうか。


もう一つ、ボーダーフリー研究で有名な葛城浩一による論文は、学習習慣やレディネスの重要性、周到に配慮をしたうえでの相互作用型授業の意義について説明していて、いずれも勉強になった。ボーダーフリーにおける問題は、(そうはいっても大学に進学しているのだから)学力というよりはレディネスのなさにあるのだろうという私の心証を裏付けるものであった。ただ、次の点に関してはとても苦しい思いがしてしまうのである。

最後に、授業の意味を学生に十分認識させることであるが、この点は非常に重要である。なぜなら、ボーダーフリー大学生は授業を無意味なものとみなす傾向が非常に強いことを示唆する知見([三宅,2011]等)が得られているからである。ただでさえ授業を無意味なものとみなしているボーダーフリー大学生に授業の意味を認識させることができなければ、ボーダーフリー大学の授業は実質的にも無意味なものと化してしまうだろう。


1章 葛城浩一「ボーダーフリー大学生が学習面で抱えている問題―実態と克服の途、43頁

授業の意味とは何だろうか。これは、銘柄大学の学生であっても、また、教員であっても簡単に説明できるようなものではない*3。実はこの1年間、学生がよく発する「(授業の)意味がない」「(授業の)効率が悪い」などの言葉について*4、たとえば「わかる」とはどのようなことなのかという類題を通じて学生と一緒に根気強く検討してきたものの、容易く解が得られるはずもなかった。むしろ、学生も教員も「授業の意味」という言葉で、何か別のことを言おうとしているのではないかという懐疑が深まったのである。
あるいはまた、もし、つまらない時間に耐える力が単位の取得、将来の職を得ることにつながるということが「授業の意味」であるとすれば、私たちはそれを否定することができるだろうか。

*1:心理学辞典や昔の職業指導論に関する文献が手元にないため、謹呈本とはまったく異なる立場の書籍を利用した。株式会社リアセックのメンバーによって執筆されている。

*2:この使役を意味する言葉に違和感をを覚えないのか。

*3:たとえば、銘柄大学法学部の「刑法」の授業の意味とは何だろうか。法曹界に進むのであれば職業的レリバンスが明確である一方、そうではない場合にどうなるのか。リーガルマインドの養成という答えではあまり納得できない。

*4:同業者の方が見学にいらっしゃれば、「意味」「効率」と大きく書かれた紙をご覧になることができる。