先日、立教大学2014年度秋学期全学共通カリキュラム「高等教育の歴史的展開/N」の授業評価アンケートに関する所見票を提出した。今年は一昨年同様に履修者が少なかったため、各項目の点数や自由記述の紹介は控えたい(2013年度についてはこちら)。この授業評価は今後の授業改善のために極めて重要であって、当然のことながら今後も継続する必要がある。ただし、その営みを「評価」と表現することに戸惑いを覚えるのと同時に、点数化される項目の中にはあまり納得できないものもある。
ネット辞書において「評価」は次のように説明される。


評価(大辞林 第三版)
1、物の善悪・美醜などを考え、価値を定めること。 「死後に学説の−が高まった」
2、品物の値段を定めること。また、その値段。 「土地の−が年々上がる」 「 −額」
3、物の値打ちを認めてほめること。 「 −できる内容の本」
評価(デジタル大辞泉)
1、品物の価格を決めること。また、その価格。ねぶみ。「―額」
2、事物や人物の、善悪・美醜などの価値を判断して決めること。「外見で人を―する」
3、ある事物や人物について、その意義・価値を認めること。「―できる内容」「仕事ぶりを―する」
4、「教育評価」の略。


ここでの授業評価は「教育評価」のことではない。辞書の定義に従えば、おそらくは学生が授業のその価値を認めたり(認めなかったり)定めたり(定めなかったり)するという意味になるのだろう。私の戸惑いは、学生がそうした作業を行うことによって単なる受動的な消費者の地位に置き留められるのではないかと危惧することにある。たとえば、項目の中に「十分な静粛性が保たれた」、「板書のしかたが適切だった」、「教員は授業の準備を周到に行っていた」というものがある。しかし、もし、最近の教育政策に関する様々な文章で見かけるように「能動性」や「主体性」を喚起する必要があるとするのならば、事後にあたかも何かのサービスの享受者のように鉛筆でマークシートを塗る「評価」を行うのではなく、その場で教員に、あるいは、それが難しければ教務担当の職員にその旨を伝える方がよいのではないだろうか。教員はクレームを受ければ、それを梃子として改善に取り組むだけではなく、学生を知識の消費者ではなく生産者(の初心者?)にするようなコミュニケーションを考えるだろう(たぶん。もちろん、そんな淡い期待は叶わないかもしれないけれども)。
また、以前、数人の学生が「わかりやすい授業だった」、「この授業を受けて満足した」という項目に対して激しく怒っていたことがある。教員ではなく学生が怒っていた。これでは、あまりにも教員を見下しすぎであるというのだ。わかりにくい授業、安易に満足できない授業が良いともいう。私はくすぐったい気持ちを覚えながらも、学生の力量に感心したのである。
授業評価アンケートではなく、せめて「授業アンケート」に変えられないものだろうか。