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複数の重要な論点が提起されている。そのうち、何が議論の焦点になっていることを整理するために教育社会学理論を思い出してみたい。


http://ci.nii.ac.jp/naid/110009536399
本田伊克、2012、「教育の知識論的・文化階層論的基盤:『教育社会学的教育学改』序説」『宮城教育大学紀要』47、277-294,

バーンスティン(Bernstein1996=2000, Chapter2)は、「言説生産の領域(the field of the production of discourse)」において生み出され、世の中に流通する様々な言説が選択的に取得され、それらが教師によって伝達され子どもに獲得されるべく特別な関係に組み換えられる活動が行われる領域を「再文脈化領域(the recontextualising field)」と定義している。またこうした諸言説の組み換え(再文脈化)の原理を「<教育>言説(pedagogic discourse)」と呼ぶ。
<教育>言説は次の二つの言説、すなわち「さまざまな種類のスキルとそれらの相互関係を創出する言説」である「教授言説(instructional discourse : ID)」と、「秩序と関係とアイデンティティ」、すなわち学習者が示すべき「性格、マナー、行動、姿勢」や「学習者、
教師、およびその関係の特定のモデル」を創出する「道徳的言説」である「規制言説(regulative discourse :RD)」を埋め込んだ一つの言説として定義される。
教授言説(ID)とは、「何が(what)どのように(how)教えられるべきであるか」を定める教育内容・方法構築上の原理である。そこには「教えられるべきことが確かに教えられたか」を見極める評価をいかなる基準・観点で行うかに関する考え方も含まれている。教育内容と方法はしばしば区別されて論じられるし、そのように相対的に区別する必然性もあるわけだが、もともと両者は一体のものである。したがって、以下では「教育内容・方法」ということばを、両者を一体の社会的構築物としてとらえるという含意のもとに用いることとする。
教授言説の基本的性格を規定するのが規制言説(RD)である。規制言説は、教育活動を通じて生み出されるべき人間像や社会関係、教育内容・方法が構築される前提となる知識観・能力観・発達観に関わるものである。
バーンスティンによれば、<教育>言説は「ID/RD」として定式化される。これは規制言説が支配的な言説であることを示しており、<教育>言説とは教授言説を規制言説のなかに埋め込み、一つの言説を生み出すように導くルールであり、またこうしたルールによって実際に創出された言説のことである。
281頁

以上の引用はバーンスティンの議論の要諦の一部である(理論の理解が不十分であろう私が説明するのは論外、さらに、バーンスティンじしんの表現よりも馴染みやすい)。バースティンは主として初等中等教育を想定して議論を展開するものの、私は高等教育、とりわけ「大衆化」した現代の高等教育にも応用可能であると評価している―評価というと何だか偉そうだ・・・。
社会のさまざまな立場から寄せられる高等教育に関する諸提言の多くは「規制言説(RD)」である―なお、この場合の「言説」は社会学の一部における用法とは異なっている。高等教育の現場にいる教職員は、確かに「教授言説(ID)」は「規制言説(RD)」に埋め込まれているとはいえ、後者に的を絞った提言をされても戸惑うばかりである。何がどのような手法でいかなる順番で・・・、あるいは、スコープとシークエンスといった前者が言及される機会は極めて少ない。あったとしても「弥生会計を・・・」の程度であって、あまり参考にならない。
また、バーンスティンが大工仕事と〈教育〉における木工は同じではないというように、仕事そのものが〈教育〉になるわけではない。私の言葉では、〈教育〉はいまここのコミュニケーション、つまり、教員、生徒・学生間の絶え間なき流動的なやり取りである。教員は生徒・学生の到達具合を見極めながら、なおかつ、当然のようにそれぞれ対立する要素となる、教育政策、保護者の要求、同僚の意見などを組み入れながら、日々の実践に向き合っている。日常の経理業務と「弥生会計」の使い方〈教育〉は、〈教育〉という営みが必然的に伴うそうした特長があるがゆえに異なるのである。

バーンスティンは、パフォーマンス・モデルを「個別学モード」、「領域学モード」、「一般的スキル・モード」という 3 つの下位類型に分類している。
個別学モードは、教科の後背をなすアカデミックな言説の価値と基準を重視する。そこでは専門領域に分かれた学問知識の科学性・純粋性・無謬性が強調される。個別学モードは全体として自己愛的・「内部投入的」(Bernstein1996=2000, p.52)であり、それ自身の発展
を指向し、強い境界性とヒエラルキーによって守られている。このモードは、学習において、客観的で正しいとみなされる手続きを一段一段と登りつめていくことによって真理に到達することを要求する。
領域学モードは、個別学の再文脈化を通して、諸学問の知的な場と外的実践の場との両方で動くより大きな単位として構築される。領域学は、諸学問(諸個別学)とそれが可能にする諸技術との接触面である。たとえば、工学、医学、建築学などは知識の生産領域における領域学化の産物である。それは市場に対して応答的・依存的であるという意味で、外部投影的である。
289頁

そして、以上の引用は高等教育の現場で伝達される知識の性格に関するものである。「弥生会計」の使い方の背景には、まず経営学があるだろう。経営学は経営という教育機関外部における実践に資するための学問であるとする場合、他の学問を再文脈化した領域学である。たとえば、数学、統計学、経済学、心理学といった個別学を再文脈化、さらに、計算機科学、工学、心理学、社会学、国際関係論といった領域学をさらに再文脈化したものである。「弥生会計」の使い方それじたいのみが伝達される知識として成立するのは困難であろう。なお、「弥生会計」の使い方を「一般的スキル・モード」に属するとみなす場合は、いわゆる“ポ近能”に関する議論の蓄積を参考にしたい。
こうした知識の性質を、大学とその他大学相当の機関に分けて考えようという提案については、私のライフワークである戦後日本における中等後教育政策の桎梏、さらには、国民の職業教育の忌避感情や階層論に踏み込む必要がある。以後、次回に。


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