数ヶ月前から組織学習論の勉強をひっそりと再開している。今日は再び入門書を読んでみた。

企業内人材育成入門

企業内人材育成入門

特に、成功した経営者の「教育論」は、広く巷間に流布している。ロマンティシズムと、幾ばくかのノスタルジーをともなう成功者の物語は、人々を魅了してやまない。それは、自社の教育に携わるビジネスパーソンを勇気づける。
しかし、「私の教育論」は、ともすれば弊害をもたらすことも多い。
企業内の教育を統御する立場の人間が、「ある一人の人間の被教育経験」という、第三者から批判を受けにくい限定的な一事例を根拠に、企業全体の教育システムを改善しようとするとき、その弊害は前景化する。〈私〉にとってうまくいった教育方法でも、〈彼〉(ママ)にとってうまくいくわけではない。〈私〉にとっての「教師」は、〈彼〉にとってもよい教師であるわけではない。「ここ」で通用したものが、「あちら」では通用しない。かくして「私の教育論」を基調とした企業内の教育の営みは、亀裂が走りやすい。
まえがき

最近の「ブラック企業」、いや、そもそも日本の大企業の少なからずの教育訓練の問題を指摘しているようにみえるのと同時に、高等教育の問題をも言い当てているようである。過去の一事例、現在成功しているといわれる一事例を過大評価してしまう傾向は、まさしく現代の大学改革においても見られるのである。

メーハンは、学習者の評価は個人の能力を純粋に評価した結果ではなく、評価に関わるステークホルダーの利害をめぐる争いを反映したものになると主張している。特に、教育プログラムに対して大きな利害関係をもつステークホルダーが評価を行う場合、プログラム自体に対する評価が損なわれないような形で、学習者個人が評価されてしまうことを、ヴェイルは指摘している。
また、スターは、ステークホルダー間で利害関係の対立があった場合、最も立場の弱いステークホルダーの利益を犠牲にすることで、ステークホルダー全体のネットワークは保持されると主張している。
こうした状況は、あらゆる教育の場に不可避的に出現する。評価に関して大きな利害関係をもつ教員(講師)というステークホルダーは、さまざまな“サバイバル戦略”を用いて、この利害関係をめぐる“アリーナ”を生き抜かなければならない。そのために、ステークホルダーとして教員は、「まず(教師自身が)生き残ること、つぎに教育」という優先順位を選択することになる。
314頁

狭義の教育学における教育評価論ではあまり指摘されてこなかったことであろう―単に私の勉強不足かもしれないので、あまり強く主張できない。この説明は企業における外部講師(研修業者、大学)による研修についてまとめたものであるが、やはり同じことが高等教育においてもあてはまるような印象を持った。総括的評価はもちろんのこと、形成的評価についても、教員は様々な制約に阻まれているがゆえに、「純粋な」(?)評価を行うというのは思いのほか容易ではないかもしれない。卑近な例を挙げれば、公務員に合格するような学生を伸ばすべきだという方針のもとでの形成的評価をどうするか、あるいは、なるべく留年を避けて4年間の卒業を目指すべきだ、しかし、同時に厳格に「質保証」を行うべきだという状況における総括的評価をどうするか、という問題である。