「業績主義化」という想念は、社会の合理的統御の観念を前提としている点ではまさに近代的なものである。それが実質的に意味している「適材適所」という概念は、本当は経験的には確かめようがない。にもかかわらず、というかそれゆえにというか、それは近代社会の主要イデオロギーの一つであった。学歴という選抜制度がその原理に沿った配分機能をつかさどる、と考えられた。大規模な配送区分けシステムのように、個人個人の適性を読み取り、行き先のルートに送り出すという機能である。
いずれにしても、正確な意味で業績主義化が進んだかどうかということは、どんなデータをもってしても確かめようがない。ある人びとは職業と学歴との関連をもって業績主義化ないしメリトクラシーと呼んでいるが(たとえば、竹内1995)、これはIQテスト・スコアをインテリジェンス(知能)と呼び、ジラフを麒麟と呼ぶようなもので、詐称も甚だしい。学歴との関連が強くなることは単に学歴主義(credentialism)と呼べばいい。
(略)
今日の階層移動表は、ある意味で人びとの合理的な選択の結果を表現している。もはや農業の子が農業を継承することを強いられる時代ではない。地理的移動がそうであるように、移動に関する自由な選択は本来的には移動抑制的である。特に問題がなければ、身近でよく知っている環境の方がリスクが小さく安心できる対象として選択しやすい。さらにまた、学歴主義化が進んだとはいっても、通常の階層分類のレベルの機会に対して学歴が決定的であることはまずない。大学を出ていなければ、医師や高級官僚になることはできないかも知れないが、高校卒でも弁護士は一〇〇%不可能ではない。音楽家やプロスポーツ選手のような専門職につくことはできるし、規模一〇〇〇人以上の会社の事務職に就職することも不可のではない。学歴主義化は学歴と関わる職業キャリアの割合を増やしたけれども、一元的に決定する度合いを増やしたわけではないのである。したがって通常の階層分類で考えれば人はどこへでも参入しうるかなりの自由度を有している。出身階層との関連は、出身階層が人びとのアスピレーションを形成する度合いに応じて生じているのである。そこに機会の格差が介在していることは疑いえないけれども、格差の完全な除去を「理想」とすることはあまりにも近代主義的すぎるだろう。
230-235頁

これを読んで、1970年頃にその時代の文脈においてある教育社会学者が指導教員から言われたということを思い出した。「君ね、社会学という学問はほんらい保守的なんだよ、何も変えることなんかできないんだよ、勘違いしないようにね」と。その教育社会学者は昔も今も近代主義者とラベルを貼られてしまうのかもしれない。
それはともかく、引用前半のメリトクラシーではなく credentialism という呼称でよいという主張は理解できるものの、引用後半の階層移動の説明はよくわからなかった。このわからなさの理由を思いつきで言ってみる。実際に移動が困難ではあっても不可能ではないということと、人びとが移動を絶対に不可能であると「思い込む」ことは異なる意味である。移動についてのデータを扱って解釈する立場であれば、前者のように人びとはどこへでも参入できると主張できるのだろう。しかし、後者のような人びとの移動に関する想定―筆者からすれば誤った認識―に着目するならば、学歴が決定的であるという前提を依然として無視することはできない。私の関心がそうした前提にあるために、この文章の理解に苦しんでしまうということだろうか。

そうだとすると、焦点は「経験科学では、何をすべきかを知ることは不可能だ」という主張の当否になる。この不可能性にはどのような根拠があるのだろうか。
社会学者を中心として研究者の多くはヴェーバーの価値自由論を比較的すなおに受け入れてきたが、それは論証か何かによって納得させられたというよりは、むしろ「直感的」に「そうだな」と納得したという面が強い。「直感的」にというのは、「できない」という記述が自らの実感に合致しているからである。とくに、「経験科学では、何をすべきかを知ることは不可能だ」という点については、比較的多くの研究者が「突き詰めて考えれば、そうだな」という風に納得する可能性が高い。たとえば、さきほど経済学では「市場に介入すべきではない」という議論が多いと述べたけれども、そのような主張を基礎づけているのは「市場メカニズムを通じて、効率的な資源配分が達成される」という命題が信じられているからで、さらに遡れば「資源が効率的に配分されることは望ましいことだ」という価値判断が背後にある。しかし、この価値判断そのものは、いわば自明視されているのであって、とくに根拠が与えられているわけではない。この価値判断そのものの正当性を経験科学的に導き出すことは難しい。
271頁

価値自由論の説明のなかで、これまで私が勉強してきた数少ない(涙)なかでは、理解しやすいものであった。学部生の頃、価値自由論について習う一方で、価値に強く関与する学者があまりにも多く戸惑っていた。現在でも、私の政策科学に対する距離の取り方にこの問題は関わっている。しかし、この章のそれはあまりにも当たり前にすぎる結論は、そうした「直感」に付随する混乱の糸を解きほぐしている。ただし、抽象的な水準で事実/価値の二分法の問題を理解することはできるのだけれども、それを個別具体的な「社会問題」―たとえば、「学歴主義」問題―について下ろして考える際、果たして同じように理解できるかどうか、なおわからないのである。