先日の大学教育学会で、ある高等教育論の先生から私の個人発表に関する質問を頂戴した。総括討論の時間にお答えを申し上げたものの、すでに先生は退室なさってしまっていた。
質問は「なぜ、『能力検査』ではなく『心理検査』に着目するのか」というものだった。言外の意図としては、就職研究であるにもかかわらずどうして心理面に焦点を絞るのか、その理由を聞きたいということだろう。私が「こころ」のようなものに関心を持ったのは、職業指導に関して次のような歴史的経緯の存在があるためである。

教育測定の社会史―田中寛一を中心に

教育測定の社会史―田中寛一を中心に

ここで注意したいのは、田中は知能の尺度に基づく人材の配分にとどまらず、情意的特質に基づく人材の配分も有効な方法だと考えていたという点である。スタンフォード・ビネーテストを作成し、知能テストの社会的利用に取り組んだ代表的心理学者、ターマンは知能の序列に情意的特質の序列も従属すると考えて、知能の一元的な序列に基づく人材の配分を構想していたが、田中は知能の尺度とは異なる自立的な情意的特質の尺度に基づく人材配分を考えていた。
(略)
この情意的特質の評価は、知能以外の能力と職業との積極的な相関を認めているという点で、田中の能力観の特徴を示している。この種の検査は知能に基づく進学指導が前提となっており、知能の序列と社会的身分秩序との対応から免れているものではなく、また、後に彼が述べていたように、知能テストに比べると情意テストは十分な開発は進まなかったが、知能だけを職業指導で重視していたわけではなかった。彼の能力観からは、適性検査によって測る個別的な作業と対応した能力よりも、知能や情意的特質を含む一般的な能力を重視して、学卒時の潜在的能力に応じた人材の配分を目指していたことがうかがえる。
205頁

田中寛一は「B式智能検査法」や「田中・びねー式智能検査法」などの開発者である。このような経緯が個人発表の前提にあった―このことを説明するべきであった。田中の時代以降、「情意テスト」に相当するものが開発されて、まさしく「知能や情意的特質を含む一般的な能力」が学歴・学校歴と合わせて重視されるようになる。とりわけ大卒者に関しては「指定校」の論理が働かない「マス」の部分を対象として、「情意テスト」が行われていくのである。知識や技能だけでは「職業能力」を評価しないという慣行については、これまで多くの研究が行われてきた。そのうえで、ではどのようにしてそれら以外のことがらを評価していたのか、依然として明らかになっていないことが多いのだ。
続きは今月末の別の学会(の懇親会)にて。