科研のプロジェクトでテスト理論に関する勉強を続けている―その成果の一部が今週末の大学教育学会の自由研究発表「新規学卒者の採用を目的とする心理検査の歴史的展開―総合検査SPIに着目して」である。心理尺度、因子分析の問題点を考えながら考察を進めているところ、このような主張に出くわした。

学習評価の新潮流 (シリーズ行動計量の科学)

学習評価の新潮流 (シリーズ行動計量の科学)

特に大規模試験においては、教育評価のあり方は、1)将来の国家像を提示し、2)その国家像を実現するために、3)そのような人材が備えているべき資質(理想状態)は何かを吟味し、4)それらの資質が子どもたち各自の幸福や将来に有意義であるならば、5)その資質を学力として測定・査定し、6)高く評価してやればよい、ということである。当該資質を測定(テスト)し、高く評価するということになれば、テストが持つ正の存在効果によって若者たちは、その能力を伸ばし、またそのような若者が世界で活躍すれば国益につながっていく。ただし、そのことによって彼らの人生が豊かにならなければいけない。
(略)
子どもたちの才能は多種多様である。国家が政策として、あるいはある教育機関が教育できる部分は、そのうちわずかである。なぜ、子どもたちのある限定されたいくつかの能力を重点的に教育し、評価するかについて、文部科学省あるいは当該教育機関は説明できなくてはならない。
52-53頁

さすがに専門書であるので、「測定」と「評価」の使い分けは十分である。しかし、同時に、テスト理論(の一部?)が機能主義的な前提を持っているということに気付かされる。上記4)で子どもたちが不幸になる場合、教育評価のあり方はいかなるものになるのだろう。
以上のモヤモヤを抱えたまま、学会発表を行う予定である。