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『「キャリア教育における『非就労』の位置づけに関する研究」最終報告書』(平成23年度〜平成25年度科学研究費補助金基盤研究(C)』


横浜国立大学の新谷康浩先生より頂戴いたしました。ありがとうございました。


キャリア教育に関する文献を読んでいると、「正社員になるべきだ」、「フリーターになってはならない」、「自己責任としてエンプロイヤビリティを高めるべきだ」、「キャリアは自ら作り上げるものだ」といった主張に出会うことがある。その度に、正社員とは何か、商売上の理由があってフリーターを必要としてきたのではないのか(いまさら何を)*1、また自己責任か(懐かしい)、自らキャリアを作るための適切な手段はいかにして提供され得るのか、といった直接的な疑問と同時に、そもそもそうした主張が前提としている規範は妥当なのかという疑問を繰り返し考えてしまう。
次の2点はとりわけ勉強になった。第1に、職業地位達成の研究へ逸脱研究のアプローチを援用する利点についてである。

これまでの教育社会学の研究においては、職業的地位達成モデルにおける職業の序列および就労/非就労を序列視することが自明視されており、「まなざし」として共有されていることを示した。
(略)
今回の研究では「就労/非就労」「正社員/非正社員」という二つの序列構造を作業的に用いて、我々の社会がもつ価値観を相対化すること、教育においてこれらの価値観がどのように扱われているかについて検討を行うこととした。この2つの序列構造は、明確な区分線を持つように見えつつも、実際には職業の序列構造と同様に多様な実態があり、その差はあいまいなものである(1章)。にもかかわらず、そこには「就労・正社員=望ましいもの」、「非就労・非正社員=望ましくないもの」という価値づけがなされており、自明視されているからである。
80-81頁

ある事象(この場合は、非就労)を逸脱であると捉える「まなざし」に着目するアプローチによる研究は、本報告書ははじめの一歩を踏み出したものであるのだろう。この「まなざし」の取り出し方に苦労した形跡があるようにみえるのである―昨年の日本教社会学会の報告においても、この手法の是非が議論の焦点の一つとなっていた。
第2に、第1に挙げた逸脱研究のアプローチによって、「上位大学」と「下位大学」では同じ事象に対して異なる意味付けが与えられることを明らかにしたことである。

結果として、キャリア教育は、大学によって異なる進路の水路づけを行う装置となっている。しかし、単純に同じ序列の中に位置づけられるというだけではない。上位大学と下位大学では対象となる学生の内部での多様性とそれをどう収斂させるかについての働きかけ方のベクトルが異なっている。下位大学では、学生個々人が自分自身の特性等をキャリア教育の中で話し合わせたとしても、個々人の差異を収斂させるのではなく、「我々はこのあたりにいる」という依拠集団の位置づけに気づかせている。そのため個々人の違いを顕在化させることにはつながっていない。
一方で上位大学においては、キャリア教育において「エンプロイヤビリティを高めて個々人が強く生きろ」というメッセージが強調される傾向がある。このメッセージは、自分の適性に応じた生き方を自分自身で決めるべきだというキャリア教育本来の(そして自己責任論につながるとされる)特徴である。
(略)
このようにみると、上位大学で行われるキャリア教育はバラバラになることが許されている。まとまらない人も大事にしている。ワークショップができなくともよい。しかし、下位大学では学生たちはまとまらないといけない。むしろまとまれないことが逸脱とみなされる傾向がある。
84-86頁

いわゆる「強い個人」であるべく孤立すること、他者との違いを鮮明にすること、そのためには集団でのまとまりを厭う必要もあること、そうした規範がある特徴を持つ大学では望ましいとされて、また別の特徴を持つ大学では否定されている。特に後者の大学のキャリア教育においては、キャリア観の育成や就職の成功と同時に、あるいはそれ以上に、他者とのつながりを持つことが目的となっていることに着目を促すのである。
なお、この研究は大学で正課内/正課外のキャリア教育を担っている社会学者、教育社会学者や労働社会学者の葛藤が背景となっているはずである。この葛藤を浮かび上がらせることが副次的な目的であるようにもみられるのだ。その他の研究分野出身のキャリア教育担当者と共通の課題認識を持つことができるかどうか、心にひっかかるのである。

*1:ところで、いつ頃からどのような理由で「商売」を「ビジネス」と言い換えるようになったのか。私は「商売」という表現になぜかしら好感を持つ。